[本][旧記事] 英語教育、この一冊。

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私の一冊は,森毅『学校とテスト』。

これは難しいお題だ。推薦する本は,いつ・誰に・どういう目的で挙げるかでだいぶ変わってくる。しかも,普段から複数の本を比較検討すること,他人にもそれを求めることに慣れ切っていて,「一冊」を絞ることのメリットとデメリットが悩ましい。授業や生徒指導に困難を抱えた英語教師がいれば,(少なくとも私のスタイルとしては)その事情に合わせて個別に文献を推薦するであろうから一般論的な話はし難い。

外国語教育関係の研究者を目指す学生・院生に対してなら,(かつて私が言われたように)チョムスキーの『ことばと認識』(Rules and Representations)ぐらい読んでおいたほうがいいよと言うかも知れない。

英語(教育)になんとなく興味があるという高校生〜大学一,二年生に対してなら,(かつて私がそれに感激して今に至るキッカケの一つになった)ユールの『現代言語学20章』(The Study of Language)をお薦めするかもしれない。

ここでは「学生時代に読んでおきたい教育学や教科教育法などの分野でオススメの書籍や、教師となってから出会い強く影響を受けた本」という,企画人が示してくれた例に乗っかることにする。英語教師を目指す学生・院生に特に読んでほしい一冊として,私は,森毅(1977)『学校とテスト』(朝日選書90)を挙げたい。

数学者の著者が,京都大学教授であった70年代に教育に関して書いた記事を集めたもの。読んだのは大学の3年か4年の時。再度じっくり読んだのは博士課程に進んで非常勤の授業をするようになった時。つまり,「学生時代に読んで」蒙を啓かれ,「教師となってから」も「強く影響を受けた本」というわけである。

この本を推す理由は主に2つある。

1つは,英語教師は,他の教科の考え方や実践から多くを学べると思うからだ(この本では数学教育の具体的な話は展開されていないけれども)。(言語教育として)国語教育との連携という考え方や試みは少しずつ広がっているが,数学や自然科学系教科,地理歴史,音楽や美術との連携という話を耳にすることはほとんどない。ESP (English for Specific Purpose)の実践やContent-based Language Teaching,最近だとCLIL (Content and Language Integrated Learning)でそういった内容を目にすることはあるが,through Englishとか題材・教材としてとかそういう話ではなく,様々なレベルでの各教科(教育)との共通性やそれぞれの特殊性を考察しておくことは,教師としてのすそ野を拡げるだけでなく,英語教育の諸問題を考える上でも役に立つと信じている。「一心不乱に英語(教育)!」という学生時代であっても構わないが,森羅万象に興味を持って「知らないことでも何でも味わおう!」という方が私は好みだ(結局は,メリハリの問題だろうけども)。

もう1つは,本書で語られている学校論・テスト論の多くが今も古びずに通じる――むしろ,今こそ当てはまるのではないかという思いを年々深めている――からだ(テスト論に関しては試験論・受験論と言った方が正確かもしれないが)。冒頭から「評価の相場を下げよう」と始まり,「テスト中に学習手段を与えよう」「テストそのものを教育に利用しよう」「答案の作文教育を」と次々に森節が繰り出される。評価論は何かと喧しい英語教育界隈だが,「…評価しきれない広大な領域にしかるべき敬意をはらって,心細くも判断できる部分だけで評価するより仕方はないのだ」(p. 10)という洞察であるとか次のような発想を耳にすることはほとんどない。

 あるとき試験で,何か質問はないかと言ったら,根本の基本事項を教えてくれという学生がいた。仕方がないから教えていたら,そんな大事なことは黒板の前でみんなに教えろという要求が出て,試験中に講義をさせられるはめとはなった。あとで学生のいわく,やはり試験中は講義も迫力あってよろしいですな,いつもよりようわかりましたわ。

以来,この方法を時として活用することにしている。例えば,一時間の試験でも,問題を出して二十分ぐらい考えさせたところで,その問題を解くのに役立つ授業を十五分ぐらいして,また試験の続きというようにするのである。ここで,最初から自力でできた学生が優秀ということにはならない。少し教わったらできるというのもまた,イイ線である。だから,採点の時には区別しないことにしているのだが,それよりもここで問題にしたいのは,十五分の授業の効果である。

テストという非日常的な緊迫感を利用しているのは少し邪道かもしれないが,最初に二十分ほど問題に取り組ませて,問題意識を持たせたところで授業するのは,むしろ正統的だと思う。それなら,ふだんの授業と大して変わりないという意見もあるかもしれないが,その通りであって,「授業」と「試験」の形態上の差異をできるだけ除きたいというのが,ぼくの真意でもある。「授業」中はアクビ,「試験」中はひたいにタテジワなんて光景は,なんとかして教室から追放したいと思う(pp. 25-26)。

『数学でなにを学ぶか』(講談社現代新書)で初めて微積分を理解した私は,一個人としてあるいは教師としての,森さんの粋さが好きだというのもある。例えば次のエピソード。

 〔特別の理由なしには一律評価はしないことにしている,その――引用者注〕特別な理由というのは,例えば,こんな場合である。ある年に,例年と変わった試みの授業をして,まんまと失敗,答案の三分の二は落としたくなるようなシロモノだったことがある。この場合に,非が教師にあるのは自明であって,教師の失敗で学生が単位を取れないのは全く不合理である。ただし,冒険的な試みをするのは常によいことであって,今の場合も,その翌年にはもう一度考え直して,ある程度は改革の意図は達成された。失敗を恐れて保守的に授業をしていたら,進歩がないこともまた自明なのである。この時,当の被害者である学生をどうするか。

ここでぼくの思いついたのは,例えばタテカンを出して,〈本年度の数学は授業者の失敗を自己批判して,一律八十点をつけた。しかし,来年度もう一度受講されんことを強く望む。点数は単位の先払いと考えていただきたい〉とでもやることだが,そんなことをして「タタカウ教師」とでも勘違いされるとハズカシイので,それもできず,実際にはそれをクチコミでこっそりとやったにとどまった(p. 20)。

「非が教師にあるのは自明であって,教師の失敗で学生が単位を取れないのは全く不合理である」なんて物凄くカッチョイイのに,「そんなことをして『タタカウ教師』とでも勘違いされるとハズカシイので」というのが良い。アツくない教師は好きじゃないが,アツ苦しいのはもっと嫌いだ。森さんの洒脱さは私の理想の一つである。

と,こういう話を並べると「イカニモ京大風ダナー」と思われてしまうかもしれないが,私はけっこう大マジメに,こういう発想が当たり前になればいいのにと思っている。おっとアツ苦しくて失礼。

その他,教科書論・塾論・授業論等々盛り沢山なのだが,ここでは最後に「競争主義」に関する記述を引用しておく。某市長一派と,それに対する安易な批判者,あるいは「文部省の役人」に向けてみたい。

 ホブスが言ったことは,「平等」な条件が競争を激化させるということで,この点で彼は資本主義的近代へ向けての自由競争のイデオローグとなりえたのだが,差別の否定を「平等」と短絡するときの陥穽もここにある。自主編成運動に敵対する父母(あるいはそのコピーとしての子ども)の中には,全国で使われている教科書ならたとえ悪くても条件が「平等」だから安心できる,という考えがある。これはもはや,〈教育〉の基本にかかわる。自分が自分として成長することこそが教育なのであって,他人さまなみに「成長」することは教育とは無縁なことである。「他人と同じように」という一見は「平等」そうな状況というのは,もっとも〈競争〉に適合し,〈差別〉を生産しやすい状況なのである。

…(中略)…

ここで「平等」という不正確な用語を用いているが,もっと正確には〈均質〉と言った方がよいかもしれない。「平等」ということばは,〈差別〉に抗して使うときのみ意味があるので,〈均質〉に向かって使ってはならないのだ。

そして,〈競争〉は「不平等」なときより,「平等」なときの方が悪い形態になる。入学試験場に登場する人物たちは,教師も教育法も,教科書や学習法まで違うことによって,基本的に「不平等」である。そのときに,「平等」を求めて,これを〈均質化〉してはならない。

…(中略)…

〈競争〉の結果,必然的に〈管理〉は生じている。なかには,〈管理〉の方を目的にしているのではないか,と疑われても仕方のないような教師もある。それほどでなくても,学校に安定した〈秩序〉を求める心情は案外に強い。それで,今までの議論でも,価値観としての不安定志向に違和感を持った読者もあったかと思う。じつは,〈管理〉ということばに反撥しながらも,〈秩序〉には牽引されがちなものである。

ぼくにしても,多少は乱雑を好む性癖はあるものの,無条件に「無秩序」を賛美するほどではない。問題なことは,とくに学校においては,〈秩序〉が内容に無関係に選択されやすいことである。「教育」はこの種の秩序に満ちている。内容は悪くとも,きまった教科書を使うことがよい。内容は悪くとも,学校できまったカリキュラムが行なわれているのがよい。そしてなによりも,学校できめられたことに適っているのが「よい子」であって,学校とは「よい子」を作るところとされている。戦争中に教育勅語を丸暗記した子も,戦後に「民主主義」を教科書で「学習」した子も,その内容を離れて,ともに「よい子」なのである。指導要領が変わっても,そのときどきの「内容」に忠実なのが「よい子」なのである。それで,文部省の役人は「指導要領の一貫性」につじつまを合わせようとし,進歩の一徴候としての変化を嫌う(役人だけでなくて教師もだ)。毎年,教科書の内容が変わっても,べつにかまわんではないか。

…(中略)…

しかし,〈競争の日常化〉によって強制される場は,だんだんと〈均質〉な状況を作っていく。

ここで論じたのは,〈教育〉にとって,〈管理〉を否定することの必要は,〈均質化〉を否定するためにある,という視点からである。内申書がなくても,学校の教室というのは均質化しやすい。そして,〈教育〉というものが文化創造であるからには,重要な問題はこの〈均質化〉されやすい状況にあって,いかにして子どもたちの〈異質〉な発想の干渉を保障するかにある。〈教育〉というのが〈集団〉において成立するという前提で考えれば,もっと一般的には,〈集団〉における〈異質性〉の保障と言ってもよい。

…(中略)…

未来とは,なにものによっても一義的に規定されるべきものではなく,その新しい局面を自分で切り開いていかねばならず,それゆえにつねに可能性を(そしてそれに釣り合うだけの危険性を)持っている。過去に獲得したものを,その新しい局面にあたって有効に働かそうとするが,うまくいくかもしれないし,だめかもしれない(人はそれを運という)。このことを知りながらも,認識を蓄積し思想を形成していくことが,〈教育〉ではなかったか(pp. 63-71)。

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