[雑感][旧記事] 教員養成の「破綻」を引き寄せるもの

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札幌で研究会があったため参加が叶わなかった7月14日の講演会「英語教育,迫り来る破綻」。詳細は大津先生江利川先生の記事,あるいは参加された方の個人的まとめ(◯◯な英語教員に、おれはなる!!!!)を参照されたい。参加せずに中身についてコメントすることは控えるが,広島大学の柳瀬先生の記事(の読み取り)でちょっと気になるところがあった。

全体として頷きながら拝読した(だからFacebookでシェアした)。特に「現在の政権与党等の教育改革案が前提としている思い込み」,「英語教育目的論が重要」,「理性的説得と感情的共感」は関係者を超えて多くの人に伝えたいことであるし,われわれが訴え続けるべき内容を含んでいる。

講演会に足りなかったものとして柳瀬先生が指摘している「しかし英語教育界にも徹底的な改革が必要」の節も,現に養成課程に携わっている私も「教員養成もっとガンバらにゃな!」と痛感する日々であり,言わんとしていることは分かる。しかし,この「言わんとしていることは分かる」のが柳瀬先生との個人的つきあいに基づく「補正」によるところが大きく,この記事を読む人が「英語教師(や大学教員)一人ひとりがもっと血を流せ」という風にこの部分を解釈してしまうのだとしたら,それは困る。

だいぶ前に「私が時々『関係者』に嫌気がさす理由」という記事を書いたことがあるが,「完成品としての教師モデル」はとてつもなく実現性の低い発想で,むしろ「破綻」をより引き寄せるだけだろう。

1つには,こういうマクロな議論ではあれもこれもと都合の良いリストを並べがちだが,現実には「基準を満たすまで教員は採用しない」という仕組みにはなっていない。現況や採用基準は各自治体ごとに違うにしても,「今年は基準を満たす教師がいなかったので採用しませんでした」というわけにはいかない。今はかろうじて「買い手市場」(嫌いな言葉だけど)かもしれないが,それがいつまで続くと言えるのか。同時に,「完成品」でなければ現場に出さないという発想は教員数を削減する際の論拠を与えかねないので,その意味でも困る。修士化や数年間は見習いだとかの議論も然り(それ自体の是非は今は措く)。

もう1つは,これから教員を目指そうとする人が「完成品としての教師モデル」を提示されたらどう思うか。「なにくそ,やってやらあ」と奮起してくれればいいが,みんながそう思うとは到底思えない。多くは「しんどいなあ,つらいなあ」,「私には無理かも」と思うだろう。学生で言えば,今でさえあれもこれもと多くを求められ,hecticな毎日をどうにかこうにかやっている。目指す以上はどこかで現状を直視してもらう必要はあるが,ゲンナリさせることに意味があるとは思えない。奮起する者だけが教員になればよいというマッチョな議論には私は与しない*。ともすれば,自分のマッチョさを生徒にまで求める根性主義が跋扈しかねない。そんな学校英語教育は最悪だ。そもそも教師という職業がそこまで魅力的なものか,崇高な使命感だけに訴えて志望者を維持できる職業か,考えたほうがいい。

「大学の『英語教育学者』の責任」を棚上げしたくて言っているわけではない。要するに,個々人に過度な期待を課すのではなく、「教師集団としての成長と世代間継承(の仕組み)」という視点も加えてこの記事を読んでほしいということだ。

「きちんとした発音指導ができず」「中学生が英語の文字・単語が読めないことを『こんなもんだ』と諦めてしまっている教師」や、「いいかげんな音読と直訳だけの授業)しかしない教師」はともかくとして**,そもそも,新人教師が現場に加わるために必要な「力量」とはどのようなものか,コンセンサスがあるわけではない(実態としては「教員採用試験」というハードルがあるのみ。これは教師教育研究が引き取るべき課題だが)。

そして,新人教師が時間をかけて育ち,その成長を支援する中で中堅・ベテラン教員もまた自らを省みる。そういう仕組みを崩壊させてきた,あるいは継承可能な形で作ってこなかったのだとしたら,その責任は誰にあるのか(複合的なものに決まっている)。

パッチワークのように「研修」をつぎはぎしてどうにかなるというような発想も限界だと思う。細切れの研修を外から押し付けるのではなく,教師(集団)の取り組みを支援し,それが結果として「研修」となっているような仕組みが必要だ。福井の拠点校方式はその一つの形だが,全ての地域が拠点校方式を実施できるわけではないし,教科指導の専門性を深めることにどれくらい成功しているか,課題がないわけではないだろう。

言葉足らずだがとりあえずここまでにしておく。「教育方法学でつっぱる」立場からすれば上記のような思考が巡るのは当然とも言えるのだが,今いる環境が問題意識をより自分にとってシリアスなものとするのだなあとつくづく感じた次第。

ゆっくり成長する自由をください,を先生方と考え実行する権限と時間をください。そんな世の中じゃないって?じゃ,いっそ…

* 実質的にそうなっている側面はある。それは果たして本当にハッピーなことなのだろうか。

** しかし「きちんとした発音指導」って何だろう?考え出すと疑問は尽きない。

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