[雑感][旧記事] 文法指導って何なのさ(の補足)

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LET中部支部外国語教育基礎研究部会第1回年次例会(2月22日、名古屋大学)において,「文法指導って何なのさ:目的・内容・方法」と題するワークショップの講師を務めた。まずは,この機会を与えてくれた事務局のみなさんに感謝したい。

この記事は,(100%私の不徳の致すところで)与えられた時間に収まらず,触れることのできなかった内容の補足を目的とする。

配布資料(公開版)はこちらで,こちらが使用スライド(公開版)。

(冒頭のスライドに示したリンクにアクセスすると,WS中に紹介した文法問題例に解答することができる。もうしばらく置いておく。)

さらに,USTRESM中継までされしていただいた。→前半は幸い音声が入らなかったそうだが,興味ある方はこちら

話せなかったのは,Issues on Organizing Materialsの部分。上のスライドでは81枚目から。

■授業でやる意味

文法指導/学習を考える際あまり問題にされないのが,それをわざわざ授業でやる意味だ(英語教育全体の議論にも言えるけど)。以前も書いたように,SLA研究はそのメカニズムを知りたいわけだからどんどん調べてくれればいいのだけれど,例文やタスクをいっぱい与えればフンガフンガとか,いやいやルールを先に提示してからモンゴモンゴとか言うとき,「(例えば40人からなる)その集団が集団でいる意味は何なの?」ということは当然問われてよい。実験室的な環境で個別に40人がそういうトリートメントを受けた話と,40人の(あるいは20人×2)クラスでそういう教え方をした場合の話は直ちには同列には扱えないし,後者において学習者間の(直接的・間接的)相互作用が何ら考慮されていないとすれば,かなり痛い(それは「例文やルールは教師から一方的に与えられ,学習者に受け止められるものだ」という授業観を示唆している。最近はピアうんちゃらとかの議論もあるにはあるが)。

最近,便利でよく引用しているStahl (2008)の図(配布資料p. 16。この図は私が描き直したもの。念のため)は,今回紹介したような(仮説実験授業の「授業書」*1風の一連の)問題を授業で用いる際,私がどのようなことを意図しているかを結構うまく表している。要するに,社会的知識構築のプロセスとうまく絡めることによって個人の理解を深め,同時に集団全体の理解を深めようとしている。ワークショップでは予想やその理由を聞く時間を取れなかったので,「たくさん問題を出してじゃんじゃん解説して終わりということではない」ということは強調しておきたい。図に即して少し詳説を試みる。

それまでの経験から,あるいは一連の問題に取り組む過程で,学習者はそれぞれ自分なりの理解(tacit preunderstanding)を持っている。そこには,「進行形は『〜している』という意味だ」といった(教師を困らせてきた)誤解も含まれるし,「同じ進行形でも,The bus is stopping.のバスはまだ止まっていないけど,Ken is reading a paper now.のケンくんはいくらかは読んでいるのか」なんて把握も含まれる。それを「Ken was jumping for joy.はどういう状況?」という問いで揺さぶる(make problematic→personal focus)。

自分なりの理解はそれぞれ異なるので,問いの揺さぶりが適切であれば予想・意見は割れる。なぜそう予想したのか意見を交換する。自分たちが正解だと他の学習者を説得するには「ジャンプしていた」と言うだけではダメで,なぜそう判断できるのかということを言葉にして説明しなければならない。どこかにそういう根拠を見出したのであれば「ケンくんには(たぶん)舞空術的能力があって宙に浮き続けられる」といった理由もあってよいが,キテレツな理由であればあるほど他の学習者が納得する可能性は低くなり,問題を重ねて行くと前の問題を下敷きにした議論が出てくる(Articulate in words→Public statements & Other people’s public statements→Discuss alternatives→Argumantation and rationale。進行相のプランがQuestion 3までに十分に考える根拠を提供しているかどうかという点は今は措く)。

自然科学のように実験をして答えを示すわけにはいかないので,答えは教師から与えられる(ALTから,あるいは(あれば)英語話者の映像資料等でも良い)。それでも(「意外性」の条件を満たした問題であれば特に)予想を裏切られると学習者たちは「なぜだろう」と思うと同時に,正解した学習者たちの「論拠」が少し裏付けを得る(しかし確証はない。Clarify meanings→Shared understanding)。この時点でその文法項目に関する「ルール」や「まとめ」を提示するかどうかは授業者のねらいと教材の構成に拠るが,本ワークショップで紹介したプランの場合,一般化した説明はQuestion 4の後になって提示される。したがって,動詞が状態用法で用いられている場合の進行形と現在形との対比問題には,それまでに得られたもので取りくまなければならない(Negotiate perspectives→Collaborative knowlegde→Formalize and objectify)。

このプランは,Question 5とQuestion 6を正しく予想できるようになることが一つのゴールとなっている(ただし,間違った予想をすればより理解が深まるわけで,それはプランの改善点を示すものではあっても,学習者にとって悪いことでも何でもない)。その後の問題やコミュニケーション活動においてそれまでの問題で得られた理解と一般化した説明が適用され,学習者の理解は深まったり部分的に修正されたりする(Cultural artifacts→Use in activity→Personal comprehension)。

*1 詳しくはこちらを参照。

「よい問題」の条件

については,『学習英文法を見直したい』の拙論で詳述したので,そちらを参照されたい(手抜きとか言わない)。

■知識の質

こちらについても,拙論

で述べたので詳しくはそちらをお読みいただきたいのだが,Engeström (1994)による知識の質の整理を当てはめると,文法的知識の組織のされ方は,

  • 事実としての知識: 個々の例文・用例
  • 定義・分類としての知識: 文法範疇,一般的特徴(意味論的定義),抽象的イメージ
  • 手続き的記述としての知識: 配置・移動・変形等の手順則
  • システムモデルとしての知識: 文法体系(他の文法概念との関連・適用限界)

と分類することができる。学習者にとって(われわれにとっても)具体的には個々の例文・用例しかないわけだから,問題は個々の例文・用例を通じてどうやって文法体系の形成を導くかということになる。

ワークショップ後に例文を評価するコメントをいただいたが,その意味で,どういう例文を与えるかこそが文法指導にとって決定的だとも言える。ある意味で当たり前のことではあるが。その意味で私は,「大量の理解可能なインプット」が第二言語習得にとって最も重要だとしても,そのインプットが何でもいいとは思わない。適当なインプットにさらされているだけでも理解・習得できる文法概念・項目もあるかもしれないが,「あ,そういう違いがあるんだ」,「そういう使い方をするんだ/してはいけないんだ」と気づきやすいようなものが求められる(特に授業においてこういう扱いをするとすれば)。現実にはそこは連続的なものだと思うけれども。

その際,学習者が物事の理解・評価,関連課題の解決に用いるモデルとして例示・プロトタイプや先行オーガナイザー,アルゴリズム/ルールなどがあり,それを問題・説明に添えたり事前事後に与えたりすることが考えられる(詳しくは,上掲『学習英文法を見直したい』を参照)。要するに,教師の側の説明の方法にしても,学習者の側での知識形成の道筋にしても様々にあり得るということである。したがって,文法指導が

  • 例文・用例 → 手続き/体系の形成
  • 体系/手続きの提示 → 例文・用例

のいずれの方向で進むのが良いかというのは,文法概念・項目によるっしょJK(常識的に考えて)ということを最後に言わんとした。いくつかの売れっコ文法解説書は――Engeström (1994)の枠組みで見るとその構成の特徴の違いがある程度浮き彫りになるのだが――仮に利用するとしても,その点を考慮に入れた扱いが必要だろう(画一化した構成が好まれるのは理解はするが…)。

…という話をすっ飛ばしたので,問題例の解説だけわーっとして終わってしまう格好になって,予想をはるかに超える参加者のみなさんには大変申し訳なく思っている。にもかかわらず温かいコメントを多くいただき,厚く御礼申し上げる次第。正式な産声をあげたこの外国語教育基礎研究部会が今後も盛会であるよう,学生・院生・若手にとって実り多い場所であるよう,微力ながら応援し続けたい(to be continued…)

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