[レビュー009] テクノロジーを利用した学習の効果 (Mayer, 2010)

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先日、NHKクローズアップ現代で「学びを変える? ~デジタル授業革命~」という放送がありました。学会の発表や講演ではありませんから、編集の方針や切り取り方に異議を唱えるつもりはありません。韓国の断片的な事情を見るだけでも「教え方(内容含む)を併せて変えない限り、不毛な議論は絶えず出るでしょうな」と思わせてくれる(こちらも参照)点では有益だったと思います。ただ、わざわざスタジオに「専門家」を呼んで話を聞く時間を取るのであれば、せめて実際に実践を重ねている人か、主観的な印象論ではないレベルでの情報を提供できる人を呼んで欲しかったなと思います。

そこで思い出したのが、この文献です。

関心するのは、まず、ここでの「テクノロジー」や「学習」、「指導」、「テクノロジーを利用した学習・指導」の意味や目的、その際の教える側の役割を、これまでの議論との関係で順を追って整理・定義した上で論を進めているところです。「ICT教育」や「デジタル授業」という言葉が踊っても、知識観や学習観などの違いによってそのカバーする範囲やイメージするところはまちまちであるように思います。不毛な議論を招く要因の最たるものです。

「テクノロジーを利用した学習」に関する研究には、大きく分けて、「初学者に算数を教えるのに、コンピュータは教科書よりも効果的か」といった指導媒体に関する研究と、「学習者に教材を提示するのに最も良い方法は何か」といった指導法に関する研究があります。本論では、具体的な指標を挙げてはいませんが、先行研究の結果に照らして、「指導媒体はテクノロジーを利用した学習の最も目立つ側面ではあるが、学習をもたらすのはその指導法である」(媒体それ自体ではない)と言い切っています(p. 189)。つまり、「タブレットは学習に有効かどうか」という議論は、「タブレットを活用して何をどう教えるか」、「タブレットなら何がどう教え・学びやすいか」に目を向けない限りほとんど意味がない。

本論で最も有益なのは、認知負荷理論(Cognitive load theory)の枠組みに沿って、実証的な研究の結果に基づく「テクノロジーを利用した学習」の効果を提示していることです。この理論では、学習中に学習者に要求される処理(能力)を以下の3つに分けます(認知負荷理論では、extraneous, intrinsic, germaneという用語を用いますが、ここでは前段との関連で分かりやすい言葉に言い換えられています。この把握の粗さ・恣意性がちょっと気になりますが、それはひとまず措きます)。

  • 外的(extraneous)処理: 授業の目的と関連性の薄い認知処理。指導デザインのまずさによって引き起こされる(例えば、学習内容から逸れるanecdotesや、レイアウトが悪いせいでページを行ったり来たりしないといけない、など)。
  • 本質的(essential)処理: 提示された教材を認識し、扱うために求められる基本的な認知処理。教材がもともと持っている複雑さによって引き起こされる。
  • 生成的(generative)処理: 提示された教材を理解するために求められる深い認知処理。学ぼうとする学習者のモチベーションによって引き起こされる。

テクノロジーを利用した学習が効果的に行われるとはどのようなことか。Mayer (2010)は、「外的処理を減らし、本質的処理にうまく対応できるようにし、生成的処理を促進すること」だと考えます。統制群(「同じ内容を学んでいるが、テクノロジーを利用していないグループ」なので、この場合、比較群と言ったほうが正確だと思いますが)との比較を行っている先行研究をこの3つの観点で分類し、統制群との差の効果量(Cohen’s d)の平均を算出しています(各平均効果量の信頼区間こそが知りたい情報ではありますが)。絞り込みやコーディングのプロセスこそ細かく記載されてはいませんが、一種の(調整変数による)メタ分析ですね(ただし単位は研究(studies)ではなくテスト(tests)。k = 3 to 17)。

外的処理については、5つの「原理」(調整変数)が提示されています。教材の余計な部分を減らす「首尾一貫性を強める」は効果量0.97(k = 13/14)だったのですが、それより大きかったのは「時間的近接性を高める」(動画と解説を同時に提示することなど, d = 1.31)と、「空間的近接性を高める」(語句の横に対応する図を提示することなど, d = 1.12)でした。他方、「冗長性をおさえる」(動画に字幕説明を加えないなど), d = 0.72)や「目立つようにする」(教材の重要な部分をハイライトするなど, d = 0.52)は「首尾一貫性」よりも低い効果量となりました。本論は外国語教育に特化して書かれたものではなく、むしろ医学や科学の教材を用いた研究が例として挙げられているのですが、第二言語習得研究でも「インプット強化」の名の下に、文に下線を引いたり強調したりすることの効果を調べる研究があります。この結果を見る限り、実践においてはむしろ学習者の気をそらす要素がないかどうかや、必要な要素が近くにまとまっていることのほうが影響が大きいということが言えそうです。

本質的処理については、私の言葉で言えば「部分にわける」(segmentation)、「前もって準備する」(pre-training)、「1つの経路に負担を集中させない」(modality)という3つの原理が提示されています。それほど差があるわけではありませんが、最も効果量が大きいのは最後の原理(d = 1.02)でした(k = 17/17)。これは、例えば動画を見ながら同時に字幕を読まなければ行けないとなると「視覚」という経路のみに負担がかかるので、それよりは動画を見ながら解説を聞く(視覚・聴覚)ほうが学習者にとっては取り組みやすくなるというような話です。ついで「部分にわける」(d = 0.98)、「前もって準備する」(d = 0.85)と続きます。タブレット端末やアプリについても、学習者に過度の負担を強いるパッケージになっていないか、見るばかり聴くばかりにならないよう、アプリ自体または教師からの経路のサポートがあるかといった点を考慮する必要があると言えるでしょう。

生成的処理については、「複数の情報メディアを組み合わせる」原理(d = 1.39, k = 11/11)と、「わがことと感じられるようにする」原理(d = 1.11)の二つしか示されていませんが、クロ現で紹介されている広尾学園のうまくいっている部分は、両原理が上手に生かされている例だと言えるかもしれません。

効果量のイメージができないといまいちピンと来ないかもしれませんが、d = 1.00というのは、テクノロジーをその側面において利用しなかったグループと比べて平均値が標準偏差1つ分上にある=2つのグループの分布は半分以上重なっていないということを意味します(統計上のいろいろは今は措きます)。本論が提示しているのは、複数の独立した研究の平均としてそういう結果だったということです。こうした蓄積と知見は、いずれかの原理だけを切り取っても今後のICT活用の有効性を測るベンチマークになるという点で重要だと考えます。個人的に

  • 上述の生成的処理が促されるような、それを目的とするような授業での活用
  • ICTの利点(実用的で、繰り返し使えて、フィードバックが帰ってくる、といったこと)を活かして、読み書き計算の習熟や個別的情報の暗記を目的とする授業での活用

は現時点でも区別すべきだと思うこともあり、本論は件のクロ現のテーマに対しても有益だと考えます(後者であれば、外的処理を減らし、本質的処理への対応をスムーズにすることが鍵になる)。「専門家」の役割は、個人的信念や経験のみで印象批評をすることではなく、こういう事実やデータを提示した上でその意味を解説することでしょう。この問題の専門家でもない私が知っているぐらいですから、本論も含め、もっと多くの有益な研究の知見に熟知した「ICT教育」や「デジタル授業」の本当の「専門家」はたっくさんいるはずですが……?

(ちなみに本文献は翻訳もされているようですが、内容の例として挙がっているphotosynthesisを「写真合成」と訳したりしているらしいので、読まないほうがいいでしょう。)

Standing on the shoulders of giants … tremblingly.

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