[レビュー013]『専門家として教師を育てる』ためにもちゃんとしよう(佐藤, 2015)

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私と同じ頃に教育方法学を学んだ者で、佐藤学さんの著作の世話になっていない者はほぼ皆無であろう。私の場合、さあ専門の勉強が始まるぞと思った時には書店には岩波テキストブックスの『教育方法学』が(読みづらいことこの上ないけど)当然のように鎮座ましまし、学部の演習では世織書房の一連の著作(『カリキュラムの批評』、『学びの快楽』、『教育時評』等)を検討し難解さに苦汁をなめ、専門の演習では『米国カリキュラム改造史研究』を検討したり、自分が専門学校や大学で教える側になってみると放送大学教材の『教育の方法』(のち左右社版)がすこぶる便利だったり、その他、学びの共同体の話とか基礎学力の話とかとか。まあお世話になってきましたよ(一冊あげるなら稲垣先生との『授業研究入門』だが)。

だからこそ言っておきたい、近著

のこと。

これまでの著作で主張してきたことが凝縮されており、全体としては面白く読める一冊である。著作に親しんできた者にとっては長期熟成された醤油のような印象があり、彼の文献を初めて手に取る人も考えていることの全体像は比較的得やすいのではないか。特にエピローグの「教師たちへのメッセージ」には強く共感する。

だが、まとめや主張の根拠が辿れない問題、あるいは恣意的な解釈で困る問題という、これまでの著作でもちょくちょく見られた現象が少なからずある。学術論文ではないと言われればそれまでだが、内容の性格上、学術論文と同じ水準での出典明記を行うか、せめて元となった一次研究を案内するべきだ*1。

例えば、第1章(改革の緊急性)に次のような記述がある。

 日本の学校教育の最大の遅れの一つは、授業形態と学びのスタイルにある。PISA調査の報告において、次の表5に見るように、日本の数学の授業は他の諸国と比べて「協力学習(cooperative learning)」(小グループ学習)の機会とその価値づけが極端に低く、一斉授業と個人学習が中心で、グループ学習の普及は65ヵ国中、最低である。

PISA調査における授業と学びの方略に関する調査結果には、ほかにも興味深い事柄が多くある。授業と学びの方略に関して、日本は集団主義で欧米は個人主義というステレオタイプで語られがちだが、むしろ逆で、日本の教室の学びは個人学習が支配的であり、欧米では小グループ学習が中心である。さらに日本や韓国の学びは「暗記中心」でアメリカの学びは「思考・探究」中心というステレオタイプで語られがちだが、現実には、日本と韓国の教師が求めている授業の特徴は「思考・探究」中心であり、アメリカの学びは途上国と共通していて「暗記中心」の方略が支配的である。日本と韓国の教師は、観念的には「思考・探究」を中心とする授業を希求しながらも、現実には「思考・探究」を個人学習を中心に推進しているのである。しかし、「思考・探究」としての学びは個人では著しく限界があり、協同的学びにおいて最も効果を発揮する。これは日本と韓国の教師の授業が抱える、皮肉なパラドクスである(pp. 16-17)。

なかなか興味深い記述だ。ただ、この主張の元となっている表5(p. 18)が問題だ。「数学的学びにおける協同的学びの活用」と題された表の出典はPISA 2010 (OECD)となっている。もちろん巻末に参考文献はあがっている。しかし、OECD (2010)は以下の2つが挙がっている。どっちだろう。

正解は後者。2010aと2010bというふうに区別してくれれば助かるし、ページ数も示されておらず困ったもんだが、これはまあ大目に見ることにしよう(OECDが公開してくれててよかったものの、みんなはマネしちゃだめゼッタイ!)。後者のp. 47、Figure 2.5がここで引用されている表5に当たる(Figureを「図」ではなく「表」としているところはツッコミませんよ)。ご自身の目で確認してもらいたいが、Figure 2.5のタイトルは”Students’ use of elaboration strategies to learn mathematics”である(リンク先ページの下部、Download the publicationからPDFファイルがダウンロードできる)。あれ?

そうなのだ。この図は「協同的学びの活用」について示してなどいない。生徒の学習方略についての、それぞれ4つないしは5つの質問項目の結果に基づく3つの「メタ認知方略」(memorization/rehearsal, elaboration, control)の内の1つのelaboration(この場合「工夫」とでも言えばいいでしょうか)方略の結果である。elaborationが「思考・探究」と捉えられ、佐藤さんの考える「協同的学び」のイメージやそれによってもたらされるものがコレなのだという強弁は可能だが、そうだとすれば「明確な目標を設定し、そこに到達するために進捗をモニターする」ことにかかわるcontrol方略の結果も重要ではないだろうか?(というか、数学的理解に関してはどの方略も少なからず重要な構成概念だと考えて調べているわけなので、memorization/rehearsalが重要じゃないということでは決してない)。むしろOECD (2010)によれば、はっきりした結果が示されているわけではないものの「全体としてPISAの成績と強く結び付くのは、自身の学習管理と競争的学習環境を好むこと」であり、PISA調査をベースに論じる限り佐藤(2015)とは真逆の結論が導かれてしまう(p. 43)。

佐藤(2015)にはABCDE–これはelaboration方略使用を測るための5つの質問を表している–の下の数値が何を意味しているかという説明もないのだが、これは4件法で(例えばA. When I am solving mathematics problems, I often think of new ways to get the answer.という質問に)agreeまたはstrongly agreeと答えた生徒の割合を示している。日本の場合、生徒の42%がそのどちらかを回答したということだ。驚くのは、佐藤(2015)ではその横に「協同的学びを活用している生徒の割合」とあることだ。これが今の数値の説明のつもりなのかもしれないが、Figure 2.5のその場所には、”Variation in students’ use of elaboration strategies among schools within each country”とある。つまり横棒は結果のばらつき、詳しく言うと各国の学校間での「工夫」方略に関する質問に対する肯定的回答のばらつきを(上下5%ずつをカットして)示しているのだ。そしてこの図は、中間50%のばらつきが大きいほうから順に並べられている。「グループ学習の普及は65ヵ国中、最低」という読み取りはどこからもたらされたものだろうか(そもそも、この図には41ヵ国しか挙がっていないのだが)。仮に前者の文献のほうに示されているとすればそれを明示する責任が著者にはあるし、示されていないとすれば…うーむ参りましたな。

もっと根本的な問題は、OECD (2010)自身が、各国の生徒は質問に対して異なる捉え方をしている可能性が高いので、国の間の比較は注意すべしと冒頭で断っているということだ。「例えばフィンランド・日本・韓国・オランダの生徒は、PISAの成績はメキシコ・ブラジル・チュニジアの生徒よりはるかに高いにもかかわらず、多様な学習方略を採り入れているとは認めない傾向にある」(p. 42。趣旨が分かりやすいようにやや意訳した)。だから国同士の単純な比較はほとんど意味をなさない。佐藤(2015)が引用している図だけみるとメキシコはelaboration方略使用が高いように見えるが、memorization/rehearsal方略も同様に高い位置にあるし、control方略も低くはない。そして、「途上国と共通して」いるのかどうかはともかく、確かにアメリカはmemorization/rehearsal方略がメキシコやインドネシアと同様の分布を示しているが、elaboration方略だって同様で、control方略が全体の中央値を中心に左右に分布といった様相であり、「『暗記中心』の方略が支配的」とまで言えるかどうかは甚だ疑わしい。さらに言えば、この3つのメタ認知方略使用に関する限り、 PISAについてよく引き合いに出されてきたフィンランドだって、日本ほどではないにせよ全体として低い位置に分布しているのだ。そのことはどう説明するのか。

そもそも佐藤(2015)が「協力学習(cooperative learning)」(小グループ学習)について何か言いたいなら、なぜelaborationについてではなく、より直接的に(思える)「競争的学習環境」と「協力的学習環境」に対する学習者の好みの分析を参照しなかったのかが不思議だ(pp. 49-51)。とは言え、これも「日本の教室の学びは個人学習が支配的」だということを裏付けるようなデータではなく、そもそも全て生徒に対する質問紙調査の結果の分析なので、(間接的な推論は不可能ではないにせよ)OECD (2010)のこの章のデータだけで教師がどのような授業を「希求」しているかを論じることは難しい。さらにここで用いられているのは2003年のPISA調査のデータだということも言及したほうが良い(数学的リテラシーが重点項目だったのが2003年調査であったため。2006年調査は科学的リテラシー、2009年調査は読解力で、2012年調査が再び数学的リテラシー)。一連のデータから読み取れるのは、日本の生徒は、数学に対する3つのメタ認知方略と2つの学習環境の好み、いずれも肯定的回答が多くはなかったということだ。この12年の間に、「最大の遅れ」とされた「授業形態と学びのスタイル」に何らかの変化があったのかなかったのか。

ツッコミ出すとキリがないのでやめにするが、特に恣意的(というよりも誤った引用)で害が少なくないと思った部分に言及した。要するに結論ありきの引用で、卒論・修論の検討でやらかして注意されるようなアレだ。学生ならまだ微笑んで指導できるだろうが、その分野の「大御所」となると話は違う。佐藤さんが多くを見聞きしたことから出てきた結論でそれが妥当だとしても、こういう根拠の示し方はダメだ。むしろPISA調査の分析なんか引用しないで言ったほうがまだマシだろう。

担当しているリサーチメソッドの授業では、初回にSeliger & Shohamy (1989)あるいはセリガー&ショハミー(2001)を引いて、「外国語教育研究に見られる4タイプの知識」の話をする。その4つとは、信念としての知識・権威としての知識・先験的な知識・実証的知識である。

われわれは、調査・実験・実践の結果から結論を引き出す事で「実証的知識」を得ようとする。そのためには、既存の体系的な実証研究や観察に基づく「先験的な知識」の蓄積に基づいて、適切な研究課題を設定することが不可欠である。「英語を身につけるには幼児から学ぶ事が必要だ」とか「早くに英語を教えると日本語がダメになる」といった「信念としての知識」はなんら実証されたものではなく、仮に認められるとしても、あくまで1つの「研究仮説」とみなすべきものである*2。同様に、著名人や偉い人が言ったからといってそれが立証済みの知識となるわけではなく、「権威としての知識」も検証すべき仮説として扱うべきである。といった話。

ここで引用の不備を指摘してギャーギャー言うのは、教育(方法)学の特性もあるが、佐藤さんは「権威としての知識」として扱われやすいし、現にそう扱われているということがあるからだ。佐藤(2015, p. 4)にある通り本書は「政策と実践の提案」なのであるから、一教育学者によるひとつの提言と思って読めばいいのだが、「佐藤学」という印籠だからこそ手に取るという人も多いのは事実だろう。しかし本書の提案が説得力を持つとすればそれは、佐藤さんが言っているからではなく、提示されている事実と先験的・実証的知識の正しい解釈に基づいた論証が行われているからであるべきだろう(佐藤さん自身もそれを望むと信じたい)。その点で、研究者の著作である限り、続く者が後をたどって根拠を批判的に吟味できるようにしておくべきだし、その質に関してこれがこの分野のスタンダードだと思われたくはない。(広い意味での)センパイ、頼みますよ。

 

*1 博論『米国カリキュラム改造史研究』だと逆に、「どうやってそれ手に入れるんだよ笑笑(アメリカ行けってか」ぐらい詳細に明示されていたのだが。

*2 英語教育界の「信念としての知識」問題については、

をみんなが読んで考えてくれれば、ずいぶんマシになるだろう(友人だから言うのではなく本心として)。

Standing on the shoulders of giants … tremblingly.

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