[レビュー016] 外国語教師はタスクを構想できるか(Erlam, 2015)

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先日のSkype読書会は、Nassaji & Fotos (2011)は一回お休みして、

を検討した。この論文のまとめというよりは、議論を通じて考えたこと。まとめとコメントは報告者がわかりやすくしてくれるだろうと思うので、そちらにお任せする。

ニュージーランドの公立学校の外国語教員43人に対する研修で構想させたタスクが、Ellis (2003)の4つの基準に合致するかどうかを分析した研究。あくまでworkplanとしてだが、基準の満たし具合はそれほど悪くはなかった。

  • 明確なアウトカムが設定されている
  • (形式ではなく)意味に焦点が置かれている=形式の学習が目的になっておらず、『使う』ためのタスクになっている

という基準を満たすのは比較的容易(90%、84%)で、

  • 学習者自身の言語的・非言語的リソースに頼るものになっている=タスクのために必要な語句や文法を教えてタスクに取り組ませるというやり方でない

という基準を満たすのが最も困難だった(67%)という結果。ただし作成(課題として提出した)したのは1人につき1タスクのみで、43人が教えている言語の分布を除けば、それぞれの指導環境や教職歴等の情報は示されていないので、それ以上詳しいことは分からない。Teacher development的な観点でいえば、あるいは何が基準を満たすタスク・デザインを可能にして/阻んでいるのかを考察するには、その辺こそが重要だと思うのだが。Ellis (2003)の基準の妥当性自体の問題もある。

それでも本論は全体として、この研修プログラムの改善点や、task-based language teaching (TBLT)の論者が前提としている枠組みと教員たちのそれとのズレを考察し埋めようとしている点で、生産的で好感が持てる*1。TBLTにとってより重要なのはtask as process(教室で実際にどうタスクを展開できるか)のほうだとしても、教師がどの程度タスクらしいタスクを構想する力があるのか把握しておく意義はあるだろう。置き換えて練習するだけのパターン・プラクティスで「タスクやってます!」と言われても困るのだから(パターン・プラクティスがそれ自体で悪いと言っているわけではない。念のため)。ニュージーランドの外国語教員が置かれている状況についても話が聞けたので、その辺も興味深かった。

本論でErlam (2015)は、TBLT論者が思っているようには、“tasks”という概念やTBLTという枠組みが前提とするSLA研究の知見が教員に伝わっていない可能性を指摘している。例えば、「リソースの乏しい学習者にタスクは難しい」と敬遠する向きがある。それに対しTBLT論者は「タスクはoutputさせることに限るわけじゃなくて、input-basedのやつもあっていいんだよー」と繰り返し説く。第二言語習得上重要なのは、タスク実施中に「意味のある言語使用に可能な限り多くさらされること」だからだ。メッセージを理解しようと言語的やりとりが促されるのであればなお良いが、学習者が話したり書いたりすることは必ずしも「タスク」の必須要素ではない。しかし、本論の研修で与えられるタスクの定義や例は、どうしてもoutput中心のタスクをイメージさせるものになっているのではないか、とErlam (2015)は指摘する。「タスク」がコミュニケーション上の“gaps”の利用を求めるのも上記の理由によるのであって、クラスの学習者の間にある言語知識のギャップを埋めるためではないということもイマイチ伝わっていなかったようだ云々。

こういう形で、教員から十分な理解を得るためにTBLT論者の側が歩み寄っていくのは良いことだ。その際、なぜそれが求められるのかについて納得を得ることが重要ではないかというのが報告者の指摘。これも尤も。しかし、仮に“tasks”概念やTBLTの前提がきちんと理解されたとしても、今後もTBLT論者が求めるようには問題は解決しないのではないか。

具体例を出そう。本論で課題とされた「学習者自身のリソースで」という基準は、言い換えればタスクの中で「何を言うかは学習者自身が決めるようにする」(浦野, p.c.=読書会中のコメント)ということになる。事前に決められたフレーズを覚えて言うだけでは、上述の「意味のある言語使用」にはならないからだ。だから考え方としては、身振り手振りの段階であれ、単語をポロポロっと出す程度であれ、それはそれとしてOKというわけだ。定義上、仕掛けとしてたくさんの言語使用に触れることを期待はするけれども、タスクの評価はあくまでアウトカム、つまりタスクが達成できたかどうかでなされるのだから。この考え方自体に異論はなく、そうであれば望ましいと思う。

しかし、このことを理解しても、多くの教員はタスクをいきなりやることを躊躇するのではないか。実際の授業のイメージのズレがあるように思う。例えば、私が授業で紹介するWhat is your excuse?という三浦先生譲りの活動*2。

  • あなたが家にいると親から次のように言われました。親の感情を刺激しないようにどう切り抜けますか?: “You are watching TV again. Have you finished your homework?”

中高生がまさに直面する話だ(親が英語を話すことの自然さ問題は措くとして)。用いる形式は何でも良い。取材相手であれクラス全体であれ「おお〜」となるようなウマい言い訳をするのが期待されるアウトカム。カツオ的、一休さん的センスが発揮されれば盛り上がる。しかしこのような自由度の高い活動に対して中高の先生が恐れるのはおそらく、ほとんど全く「言い訳」が出てこなくて教室が沈黙に包まれることだろう。ペアであれ全体であれ、誰も何も言葉を発しなければ「意味のある言語使用」への接触もへったくりもない。「すぐやるよ」、「ちょっと休憩してるだけ」といった意味の英語が出てくればまだ良いほうで、「感情を刺激しないように」という評価基準を当てはめて振り返るには程遠い。そんな展開が頭をよぎる。ほら、もうあそこのグループが遊びだした。取材活動にするにせよ会話相手が親役を務めて攻防を繰り広げるにせよ、もっと学習者の言語リソースが豊富にならないと…そう考えても不思議はない(実際に採取された例には、シンプルな英語でも“Today you are beautiful, Mom.”という抜群の回答もあるのだが)。

だとすれば、とTBLT論者は言う。むりにoutputさせる必要はない。教師が挙げる色々な言い訳の例を聞かせて、分類したり評価したり、そういうinput-basedのタスクでもいいではないか。うん。生徒がみんなちゃんと聞いたり読んだりしてやってくれるんならね。読ませられたら苦労しないっていうかね。聴けないから苦労してるっていうかね。ほら、またあそこのグループが遊びだした。。Erlam (2015)にも、年齢の低い集団を指導している教師が多く、ゲーム性のあるタスクが提案されていたという指摘があるが、彼らがそういう活動をやろうと思うのにはそれなりの理由があると私は思う。input-basedのタスクだからといって直ちに程度が低いということにはならない(むしろちゃんと構想しようとすれば高度になるだろう)が、学習者の言語リソースが足りないからと用意されるタスクとなれば内容的、認知付加的に単純なものにならざるを得ない。ごくたまになら受け容れてくれるだろうが、毎回それでは「フルーツバスケットはもう十分なんだよ、オレたちをバカにしてんのか」という状態を生み出しかねない。「input-basedのタスクももっと積極的に活用を」と教員に説くのであれば、「学習者の知的興味のレベルにあった、約40人の興味を引くことのできる、(exact/procedural)繰り返しの実施に耐え得るinput-basedのタスクがあるのなら教えて下さいよ!」という英語教師の(悲痛な)要求にも応える必要があるのではないだろうか(それがTBLT論者の責務かどうかは知らないが、現場に浸透しないと嘆くのであれば)。

もう一つ、TBLT論者と、多くの英語教員・学習者との前提がズレているのではないかと感じるのは、見ている時間のスパンと学習観だ。上述の通り、TBLT論者が重視しているのは「意味のある言語使用に可能な限り多くさらされること」だから、実のところ個々のタスクの成否にはこだわらないだろうし、「習得」に長い時間がかかることも知っている(というより膨大な量の言語接触経験が必要だと考えている)。モノによってはいつまでも「習得」されない。だから、最初はジェスチャーでもカタコトの単語でも構わないと考えたり、エラーの訂正は必ずしも必要ではないと訴えたりするわけだ。

SLA研究の知見の正否をいま論じるつもりはない。問題は、タスクをやることについて教師や生徒が同じように考えてくれるかどうかということだ。それこそ、こちらの記事で論じたように、拙くても失敗ばかりでも、様々なタスクに取り組んだことがポートフォリオ的に蓄積されてそれが評価になるのであれば素晴らしい。しかし日本の場合、中学・高校には学習指導要領とそれに準拠した教科書があり、純粋にTBLTでカリキュラムを編成するのはそもそも不可能だ。仮に教員に十分な能力やアイデアがあっても、タスク、あるいはコミュニケーション活動に多くの時間を費やすのは言うほど容易いことではない 。そのような状況で果たして、教師や生徒が教科書の進度や試験、成績のことを一切意識せずに、TBLT論者のような純粋な気持ちでタスクに臨めるだろうか。生徒は英語の授業だけを受けているわけではない。他の教科で知識を学び問いに対する正解を求められている状況で、英語だけ別の学習観でと言われてもなかなか難しいものがある(それはTBLT論者の責任ではもちろんないが、全く考慮しないというのは牧歌的だ)。

成績と結びついているならなおさらだし(その場合TBLT論者はそれを「タスク」とは認めないかもしれないが)、仮にこうした日本に特殊な事情がなくなったとしても、TBLT論者の前提は授業論としてはずいぶんナイーブに思える。「1年後、2年後にキレイに飛べるようにおそらくなるはずだから、今はお尻をついてでも、何だったら足で踏んでもいいから跳び箱を乗り越えてくれればOK」というような授業を信じてずーっと付き合ってくれるほどタフで高い志を持った生徒は多くはないだろう。何かしら活動をやればやっぱり成功したいものだ。授業でspot the differencesをやると、制限時間内に全ての違いを発見できなかったペアに少なからず残念そうな表情が浮かぶ。十分な言語使用・意味交渉が起きたのだからタスクの前提上は何ら問題がないとしても、教師がそのアウトカムを認めたとしても、彼らにとってどこかおもしろくない部分が残るのは事実だ(これまでの学校文化で完璧を求められ過ぎてきたせいだとしても)。ギリギリ到達できるアウトカムを設定しつつ、意味のある言語使用への接触を最大化することこそまさに教師の役割だとTBLT論者は言うかもしれないが、それでもなおタスクの前提と、授業ごと、単元ごとに教師・学習者の多くが求める教科としての達成(感)との間には開きがあるように思う。

読書会では「TBLT論者が批判しているのはPPPのProductionに至らない“PP”であって…」という議論もあった。十全なPPPを対置してもTBLT論者は定義問題に固執するかもしれないが、私自身は正直、呼び名はどちらでも構わないと思っている。学習者にとって意味のある言語経験をもたらす活動であれば、実践上、どちらに分類されようと大差ない。「バラと呼んでいるあの花の名前がなんであろうと、薫りに違いはないはずだわ」とローズマリーではなくジュリエットが言っている通りだ。大事なのは活動の実質であって、「タスク」という概念に固執することではない。可能な範囲で「タスク」的なものを実施している時に、前の時間に言語表現をPresentしてるからPPPだ、いや生徒が勝手に察して使おうとしているだけでこちらから縛ってはいないからtaskだ、と議論をすることにどれほど意味があるのだろう。TBLT論者は定義上このPの有無を譲れないのだろうが、疑問に思うのは「学習者はそんなに教師の指示通りに行動するものだろうか?」ということだ。

例えば上述のspot the differencesの際に、例えば“at the left/right side”のような位置に関する表現を示したとしても、もちろん積極的にそれを使う学習者もいるが、さりとてそれだけで違いが効率よく見つけられるわけでもないし、大半の学習者は実際そればかり使うわけでもない。好き勝手に単語を並べたりイェス、イェス、オー、ノー言いながらなんとかこんとかやっている。少なくともこれまでの私の経験では、提示されたことを覚えて言うだけになってしまうかどうかはタスクの内容と制約が決める問題で、全体として見たときに、こんな表現使えるよという提示が「学習者が何を言うかを縛る」ことになるとは思わない。むしろこちらからは一切示していないのに、“Is there …?”ばかり言い合っているペアがいたりして、「こ、これは、中学校2年生の時のPPを経て、いま大学で最後のPが花開いたとみなされるのかしら?わおロングランPPP」と思ったりする。だから逆もしかりで、教師の側がtaskだと思ってやっていても、学習者は授業に勝手な関連性・系統性を見出して「これは先生、先週のアレを使えってことだな」と反応しているのかもしれない。それと“borrowing from the input”との違いは何だろうか。それも“borrowing from the input”でいいのだとしたら、そのとき学習者は「何を言うかを自分自身で決めている」と言えるのだろうか。なんだか「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」みたいな話。

イマイチまとまり切らず長くなってしまったが、ということでつらつら考えたのは、「外国語教師はタスクを構想できるか」も重要だが、教室でちゃんとタスクを展開してほしいと思うなら、それ以上に「TBLT論者は、外国語教師や現実の学習者がタスクをどう受け止めるか想像できるか」が鍵になるのではないかということ。ちなみに私は、昔から「言語的知識の形成」を目的とした領域と「言語能力の総体としての運用(活動)」の領域を分けた教科カリキュラム論を提示している(松村 (2012)の言う「交替型」のカリキュラムに近いもの)。その背景の一部には、ここで論じたことが含まれる。

 

*1 やぶ蛇どころか毒蝮だが、教員研修や免許更新講習の評価・改善研究がどのくらいちゃんとやられているかということを想像するに…うわ毒が身体中にッ…!

*2 Ellis (2003)の基準に照らした場合、コミュニケーション上の“gaps”があるかどうかは微妙だが、「クラスメートから言い訳のアイディアを集めた上で」などと取材活動を加えてもいい。そもそもこれはCLTのRole playの例として紹介しているもの。

Standing on the shoulders of giants … tremblingly.

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