[レビュー026] 授業を「循環する時間」の学びに(山本, 2016)

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これは良い本だ。

表紙のデザインや帯に踊る文句から、『「学力」の経済学』の二匹目のドジョウのような印象を受ける人がいるかもしれない(し、出版社としては実際それを狙っているのかもしれない)が、そういう消費のされ方は絶対にして欲しくない。経験と哲学のある教師たちの実直で辛抱強い取り組みの報告として、実践の意味をきちんと読み解ける人の手に届いてほしい。そういう本である。

ひねくれ者の私は、昨今の「アクティブ・ラーニング」を冠する、あるいは帯で謳う本は極力手に取りたくないし、必要があって読んだとしても、実質の無さを誇大広告気味に看板を掲げることで取り繕うとするような「アクティブ」さや、形式だけの乾き切った「ラーニング」にウンザリすることが多い。この本は違う。

山本先生の英語の授業の、同僚の先生がたの他教科の授業の裏打ちがある。「自律自修」に向かう彼らの実践に、「アクティブ・ラーニング」やその他流行りの言葉を乗せても構わないというだけだ。この本にはそれ以上のものが含まれている。一読して感じるのは、教科間で授業のアイデアを取り入れ合う関係の良さ、風通しの良さ。これを実現するのは容易なことではない。「アクティブ・ラーニング、アクティブ・ラーニングと盛んに言われるんですが、何か良い本はないでしょうか」と言われた時には、こういう本をこそ勧めたい。そして、取って付けたような雨後の筍的「アクティブ・ラーニング」本はその薄っぺらさをアクティブに指弾し、不幸な実践を産まぬようアクティブに葬り去っていきたい。一般向けにはこういう宣伝文句の方が売れるのかもしれないが、その手の葬り去られるべき本と一緒にされると気の毒なので、帯の煽りは教育(学)関係者には要らなかった。

もっと言えば、「教えない授業」というタイトルも私にはちょっとハマっていない。本書で述べられているような授業・学級・学校こそ、私には「教える」の本来の姿に映るからだ。ただ現状として、それほど「(効率よく、あるいは叩き込んで)教え込む」という意味での「教える」が過剰な実態があるということだろう。本書は「教えない」というキーワードでそこに一石を投じている。本書では山本先生がその考え方に至った経緯も述べられているが、敢えて一般化して言うならば、それは、いったい自分たちは何のために授業をするのか、生徒に(今すぐにとかそういうことではなくて)どうなってほしいのかを学ぶ側の視点で考え続けていることによるものだと言える。そして私はそういう視点を持った教師たちの本が好きであり、そういう教師の実践の知恵に多くを学んできた*1。第3章まで読むだけでもそのことは十分伝わると思うが、「良い学校のスバラシイ教師のサクセスストーリーでしょ」としか受け取れない人はこの本から得るものはないだろう。

山本先生とはNew Crownの編集委員として一緒にお仕事をさせていただいているのだが、失礼ながら、私が編集委員に加わってからの4年半、ここまでの決意と覚悟で熱い実践をされていたことは存じあげなかった。いや、都立両国の実践が新聞で報じられた頃に私の授業を見たいと言ってくださったこともあって断片的には知っていたのだが、本書を読んで、山本先生の懐の広さと熱意、洗練された教育哲学に僭越ながら感心しきりであった。山本先生の訪問はその時の担当授業の性格やタイミングの問題で実現しなかったのだが、むしろ私が学生を連れて訪問したい。

この記事のタイトルの「授業を『循環する時間』の学びに」の意味は、本書を読んで考えてもらいたい(pp. 118−120)。「循環する時間」(内山節)に対比されるのは「直線の時間」。

私自身の蛇足的なエピソードだが、先日、OGOBも集まるゼミのイベントがあった。複数のゼミ生が話してくれたのは、私が授業で実践しているリフレクション・ペーパーを自分も取り入れているということだった。授業やゼミでリフレクション・ペーパーの意図や使い方を教えたことはない。考えてみれば私自身も、良いなあと思った授業や仮説実験授業のやり方を自分なりに取り入れて今に至っているのであって、こうやるんだよと誰かに教わったわけではない。一人が、授業中に叱ったことで関係が悪くなってしまった(その生徒に責任があることとは言え、後から振り返るともう少しやりようもあったと彼女としては振り返る)生徒とリフレクション・ペーパーを通じて粘り強くやり取りを続けることで理解を得、心を開いてくれるようになったという話をしてくれた。私が教えなかったことが、山本先生の生徒との交換ノートの取り組みに重なるような彼女の実践につながり、彼女が「循環する時間」の中で教師としての歩みを重ねていることを非常に嬉しく思った次第。

最近、そこはかとなく、自分のゼミや授業が「直線の時間」的展開に傾いているきらいを感じていたので、彼女の話と本書は私への戒めにもなった。教員養成・研修も「循環する時間」の学びにしたいものだ。

 

*1 例えば、単に生徒実験の数を増やすだけでは理科好きは増えないことを示し説いた仮説実験授業の板倉聖宣(例えば『理科離れの真相』を参照)や、教師の正答主義的な「間違い観」が生徒の発言意欲を奪うことに警鐘を鳴らした今泉博(例えば『どの子も発言したくなる授業』を参照)、聞こえの良い言葉で結局行き過ぎた放任になっているだけの授業に釘を刺した久保斎(例えば『一斉授業の復権』を参照)など。

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