[レビュー030] 英語教育の公教育における位置についての覚書(広田・宮寺(編), 2014)

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レビューというか、研究ノートというか草稿というか。昨年末に北大で開催された後輩との研究会(注1)の指定文献が

で、それを英語教育に引きつけて読んで用意したレジュメに多少加筆したもの。小難しいことを小難しいままに書き連ねている(注2)が、広田・宮寺(編)(2014)を読んでもらえれば分かりやすくなるだろう。関連して、こちらの記事もぜひ読まれたい。

教育に関わる様々な制度的・理論的枠組みの設計原理について考察した研究に広田・宮寺(編)(2014)がある。この中で濱口桂一郎は,「どういうジョブについてどういうスキルを持っているかで人々を仕事に割り当て,世の中を成り立たせていくジョブ型社会」と「そういうものなしに特定の組織に割り当て,その組織の一員であることを前提にいろいろな仕事をあてがっていくメンバーシップ型社会」の区分を取りあげ,とりわけ学校教育に「職業的レリバンス」(本田, 2009)が求められるような時代にあっては,「一定の拠りどころ」としてのフィクションとして,前者には仕事をあてがう側にもあてがわれる側にも「納得性がある」ことを指摘している(pp. 25–27)。この区分を借りれば,外国語としての英語運用力は,まさに現在の日本の,あるいは非英語圏のフィクションとして「非常にいい拠りどころ」なのだと言える。英語を教えたり翻訳・通訳したりといった英語に関する専門的知識・技能が求められる職業を除けば,英語それ自体は媒体であって,具体的なジョブと必ずしも結びついているわけではない。従来メンバーシップ型であった日本においては,他のいくつかのクオリフィケーションと同様に,「こういうジョブについてこういうスキルがあるということを前提に,その人間を処遇していく」(p. 26)のではない形でありながら,むしろそういう形であるからこそ,外国語としての英語のそういう性格が納得を得やすい拠りどころとなっている所以ではないか。

前段落の一文に「非英語圏のフィクションとして」と添えたのは,寺沢(2015, pp. 175–176)が社会統計(JGSS)の二次分析によって実証的に明らかにしている通り,日本の現状において仕事で英語を必要とする者は,多く見積もってもせいぜい1,2割程度に過ぎないからだ。その点で,英語教育(の目的)を職業的レリバンスと結びつけようとする議論は表面的になりがちで,職業訓練の中で払われるべきコストを学校教育が肩代わりする思惑を支えることになりかねない。加えて,濱口の「スキルを公的なクオリフィケーション(資格)というかたちで固定化すればするほど,現実にその人が職場で働いて何かができる能力との間には必ずずれが発生」するという,ヨーロッパが抱える課題の指摘はたいへん興味深い(濱口, 2014, p. 26)。まさにそのヨーロッパで,その動向の一翼として開発された言語共通の参照枠(到達度指標)であるCommon European Framework of Reference for Languages (CEFR; Council of Europe, 2001)が日本の学校英語教育を席巻し,それに準ずる形での目標管理・授業改善が文科省あるいは各市町村教委から英語教員たちに突きつけられている(文部科学省, 2013)が,生徒を送り出した先におけるその「ずれ」の問題に目を向けている者はほとんどいないと思われる。

この点に関連して,前掲・広田・宮寺(編)(2014)における,山口毅のハーバーマスのコミュニケーション的行為に対する「根本的な批判」の特に第2点は示唆的である(p. 56)。つまり,「相互行為を離れて個人の内在的性質,例えば『コミュニケーション能力』などの性質は構成されないため,個体の能力の水準(②)を相互行為(①)とは独立に措定することはできない」ということだ。上記の到達度指標に基づく目標整理を論じる際,例えばAmerican Council on the Teaching of Foreign Languages (ACTFL)の会話能力テスト(Oral Proficiency Interview, OPI)において面接者の巧拙によって結果が影響を受けていることを指摘したKasper (2013)などの研究を参照している者は当然いるだろうが,管見の限り,明確に関係的能力観の立場から「個人の内在的性質とされるものも,相互行為によってその都度構成されるもの」だと言い切る論文を目にした覚えはない。

上記の動向だけでなく,そもそも英語教育研究史が全体として,パターナリズムとパーフェクショニズム(p. 248)を肯定してきたとさえ言えるかもしれない。しかしながら,再び寺沢(2015)に拠れば,「『日本人』の英語力が国際的に見て低いのは事実だが,日本だけが突出して低いわけではない」ものの,現時点で「高度な英語力を持った『日本人』は人口のごくわずかであり」,「英語力を得られるか否かは出身階層によって大きく左右されてきた」(寺沢, 2015, p. 245)。

このような現状に鑑みると,日本の英語教育を成り立たせている論理は卓越主義そのものであり,広田・宮寺(編)(2014)全体の大きな論点である生存権との関わりに対して言えることはない。EAL(English as an additional language; 英語が社会生活・学校教育の主要言語である国における,英語を第一言語としないものに対する英語教育)のような議論の乏しい日本––それを必要とする実態がないわけではなく,外国語としての日本語教育(との接続・連携)の文脈ではかなり重要かもしれないにもかかわらず––では,学校教育の一環としての英語教育に「教育制度における受容機能や教育現場における生存権保障の実践」(p. 255)を見いだすのは極めて困難である。

敢えて扇動的な言い方をすれば,現下の英語教育政策は,実際にはジョブ型社会のスキルとしての必要性も教育的配慮としての投資に対する見返りの見込みも薄いにもかかわらず,その不安と「『自分の子どもだけは』という相対的な欲望」(p. 140)に陰に陽につけ込むことによって推し進められている。仁平から「中間層以下の子どもの方が早期の詰め込み教育を経験する傾向がある。フラッシュカードとか,英語とか(後略)」(p. 116)と揶揄の対象にされていることにもそれは窺える。冒頭で指摘したように「納得を得やすい拠りどころ」であることも,大部分に共有された英語に対するルサンチマンも追い風となって,「奏功」している。宮寺(2014, pp. 127–150)はアーレントの「人の生の三領域論」に触れ,親の個別的利益が反映される社会的領域に学校を位置づけるアーレントの議論の再考を促しているが,学校を政治的領域として捉え直す視点は英語教育の公教育における位置を考える際にこそ必要だと言える。

上記の考察からすれば,公教育の必修科目として英語を置くことの正当性は失われる。だからと言って選択科目にすべきだという議論を展開したいわけではない。私が同意するのは,卯月(2014)の次の考え方であり,学校英語教育が日本社会でそういう役割を果たせるかどうかである。

公教育は知識を習得する機会を一人ひとりに保障すべきだが,その成果として重要なのは誰もが確実に知識を習得したかどうかより,社会全体で様々な制度や政策の設計の基盤となる知識を共有できたかどうかではないだろうか。高度な教育を受けて制度設計に立ち会う人々が,社会問題の改善に関する専門的知識をもっていたとしても,社会全体の利益より自らの短期的な利益を優先してそれを用いないかもしれない。権力を有する人々のそのような自由を制限し,専門的知識が適切な方法で利用されるようにするには,問題を認識し,適切な価値選択を導くための知識が共有されている必要がある。そして,このような知識の共有は,多様な立場にある人々が参加する公教育の制度を通してでなければ,なかなか実現しないのではないだろうか(卯月, 2014, pp. 99–100)。

その意味で,外国語活動であれ外国語科であれ,全くもって十分とは言えない多言語主義・複言語主義(CEFRの元々の理念)の観点を可能な限り守り,拡大することが公教育としての英語教育においても重要だということが主張できるかもしれない。マクロな議論としては,吉川と轟の研究を引いて仁平(2014, p. 123)が指摘している「教育年数が脱権威主義を高めるという効果」,「権威主義の否定あるいは民主主義的な志向性に対して,教育は確かにプラスの効果がある」(p. 123)というようなことが外国語教育についても実証的に示せれば公教育にとってその意味は小さくないと言えるだろう。つまり英語あるいは外国語を学べば学ぶほど,英語至上主義的な価値観のくびきから逃れ,異言語・異文化に寛容になるのだとしたら,生存権や「ケア」とは異なる文脈で(間接的にはそれを支えるかもしれないものとして)英語教育は公教育における重要な位置を持ち得る。最近,日本学術会議言語・文学委員会から出された提言「ことばに対する能動的態度を育てる取り組み: 初等中等教育における英語教育の発展のために」(2016年11月)はこれと同一線上にあるものと言ってよいだろう。英語教育(研究)関係者という岩の散らばり重なり具合に鑑みて,この方向で合意を形成するのは決して容易ではないどころか,悲観的な気持ちにさえなるのだが。

後半は教育学研究における当為論の位置と限界について書いたのだが、こちらはまだ加筆前なので省略。

 

(注1) 先輩風以上に吹き荒れた吹雪に負け飛行機は飛ばなかったのだが、Skypeのおかげで研究会には参加できた。

(注2) 2017年2月5日のお座敷では、亘理(2016)にこの辺の話を加味して、なるべく噛み砕いてお話する予定。あるいは、その内後輩がこの研究会の論集を作ってくれるはずなので、それまでにはなるべく分かりやすく推敲するとしよう。

 

参考文献(記載のないものは全て広田・宮寺(編), 2014に所収):

Council of Europe (2001). Common European framework of reference for languages: learning, teaching, assessment. Cambridge: Cambridge University Press.

広田 照幸 (2015).『教育は何をなすべきか: 能力・職業・市民』岩波書店.

本田 由紀 (2009).『教育の職業的意義: 若者、学校、社会をつなぐ』筑摩書房.

Kasper, G. (2013). Managing task uptake in oral proficiency interviews. In S. Ross & G. Kasper (Eds.), Assessing second language pragmatics (pp. 258–287). London, UK: Palgrave Macmillan.

文部科学省 (2013).「各中・高等学校の外国語教育における『CAN-DOリスト』の形での学習到達目標設定のための手引き

日本学術会議言語・文学委員会文化の邂逅と言語分科会 (2016).「ことばに対する能動的態度を育てる取り組み: 初等中等教育における英語教育の発展のために

寺沢 拓敬 (2015).『「日本人と英語」の社会学: なぜ英語教育論は誤解だらけなのか』研究社.

亘理 陽一 (2016).「学習指導要領の変遷と評価から何を読みとるか: 英語教育における課題と展望」『中部地区英語教育学会紀要』45, 289−296.

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2 thoughts on “[レビュー030] 英語教育の公教育における位置についての覚書(広田・宮寺(編), 2014)

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      > 外国語活動であれ外国語科であれ,全くもって十分とは言えない多言語主義・複言語主義(CEFRの元々の理念)の観点を可能な限り守り,拡大することが公教育としての英語教育においても重要

      前ブログにも書きましたけど,今度出るタスク本で評価の話をするときに行動志向評価としてのcan doの話をして,話をコンパクトにまとめるために敢えて多言語主義・複言語主義の話を捨象したんですよね。
      それでいいと思っているわけではないですし,can doだけが取り出されることの弊害ももちろんあるとは思っています。ただ,行動志向で評価することの利点や,TBLTを導入する際の評価としてはやはり行動志向で評価する方が相性がいいという点を重視し,話はそこだけにしぼることにしました。
      第3章で福田さんが公教育としての英語教育とTBLTみたいな話をしているので,そのあたりの話ともっと深く関連付けながら評価の話をした方がよかったなとこのエントリー読んで思いました。今後の課題にさせてください。

      >「相互行為を離れて個人の内在的性質,例えば『コミュニケーション能力』などの性質は構成されないため,個体の能力の水準(②)を相互行為(①)とは独立に措定することはできない」

      このあたりはダイナミックアセスメントの話ともからむと思います。そのあたりも松村 (2012)では触れられていますが僕の章では紙幅の都合で触れませんでした。task-based assessmentについては今後研究していきたいと思っているので,このあたりも今後の課題です(課題が山積み…

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        コメントありがとう(その本の著者に加えてもらえなかったのを私がひがんでるみたいになってやーよwとも思いましたが、問題意識がセカイの田村と似ているのだと前向きに捉えることにします)。

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