先日、職場が会場だったことから、日本英文学会第89回大会に参加する機会を得た。仕事の都合で一部のみの参加だったが、教育に関連する部屋を覗いた。

聞いた範囲の発表には私個人にとって特筆すべきものはなかったが、実践報告として聞けば、懸命に取り組んでいることがそれなりに伝わった。ただ、全体として、(昨今の状況から邪推し過ぎかもしれないが)教育における(英)文学の地位を護ろうとする故か、そこに大なり小なり「文学教育の意義・効用」といったものが被せられており、どうしても飛躍が目についてしまった。参加したことを後悔せずに済んだのは、そのことにフロアのほうが敏感だったおかげである。

例えばある発表は、いくつかの文献をまとめ、文学によって「共感力」や「想像力」、「批判的思考能力」を養うことができると整理したが、フロアのつっ込みは「この学会に参加している人はみな共感力があって、そんなに立派な人たちなのだろうか?笑」(大意)というもの。これには発表者も苦笑して、盛った議論であることを認めざるを得なかった。

さらに「異文化理解、他者理解を促す」という効用も語られたが、発表者の授業での実践が『不思議の国のアリス』やファンタジー小説であることについて、「そうした狙いであれば、非現実の中での文化間衝突よりも、現実にあり得る文化間衝突を扱ったテクストのほうがいいのでは」(大意)という指摘があった。個人的には、「ミラー(2008)風に言えば、『文学は他の方法では知りえないバーチャル・リアリティへ導いてくれる』(p. 99)。それにはファンタジーがまさにうってつけなのだ」と強弁するぐらいの姿勢はあっても良かったと思うのだが、要するに、上記の作品を授業で使うのは発表者の思い入れや元々の専門によるものであって、「文学教育の意義・効用」の理論から選択されたものではないことが窺えた。そのことが浮き彫りになる、良いつっ込みだったと言える(そうしたやりとりがあっても、発表者も含め皆、比較的穏やかで「ああ、この学会の参加者は上品で、さすが文学をやっているだけあるな」と思ったりもしたのだが)。

  • J. ヒリス・ミラー(馬塲弘利(訳)) (2008).『文学の読み方』岩波書店.

功利主義的な傾向の思想をもつ英国の哲学者ジェレミー・ベンサム(1748–1832年)は,詩に鋲遊び(それがどういう遊びであれ)と同じくらいの使用価値があると述べた。これは彼の最高の酷評であった。文学とコンピュータ・ゲームを比較して,私はベンサムと同じことを言おうとしているのではない。私が言おうとしているのは,文学作品とコンピュータ・ゲームはどちらも,作品を読んだりゲームをしたりする人々に想像上の現実を作り出すということなのだ。また,私は,コンピュータ・ゲームと文学はどちらにも,互いに性質は異なるものの,かけがえのない社会的有用性があると言いたいのである。結局のところ,『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』は,方法は異なるが,どちらもゲームをモデルにしているではないか。前者はトランプ・ゲーム,後者はチェス・ゲームを。キャロルにとって,そして少なくとも私にとっても,物語とゲームは深層においては一致するものなのである(p. 118)。

と、そしてそれだけで十分だとミラーならば言うだろうが、これは「なぜ文学を読むのか」について(をめぐる哲学的・歴史的変遷に触れながら)のミラーの主張であって、なぜ文学を教育に取り入れるのかの議論ではない。しかし、由来がどういうものであれとにかく教えている実態が先にあって、そこに尤もらしい意義や効用をまぶすくらいなら、そう言われたほうがまだ納得できる。要するに「文学を教えて何の意味があるのか」という問いには、(1)何か一つでもまともに読んでやってみて考えろばーかと返すか、さもなくば(2)具体的な文学作品の魅力そのものを伝えることによってしか答えられないのではないのか(英文学・英詩を英語でまともに鑑賞したことのない素人の私が言っても説得力はないが、好きで翻訳文学を楽しんできた者として)。

仮に私が発表者だったら、やや長くなるが、『ナボコフの文学講義』を訳した野島先生の「新装版訳者あとがき」の以下の一節を引くだろう。

たしかに今日、幸いにもいっさいのイデオロギーは終息したかにみえる。が,それで現代人の精神がそれだけ自由になったとは,不幸にしてとてもいえない,このこともまたたしかだ。ことによると,ひとびとの心はいっそう不自由になったと,いえないこともないのだ。イデオロギーが支配する時代なら,少なくともそれに抵抗する自由はあるだろうが,今日,わたしたちがそれと気づかずに囚えられている一般通念,価値観,判断基準,一言でいえばナボコフのいう「常識」は,その呪縛が気づかれていないだけ,それだけ隠微・狡猾な桎梏となりおおせているからである。個人の自由という「常識」が声高に謳歌されればされるほど,個人の自由も存在感も希薄なものと化さざるをえない。この皮肉な逆説−−今日現在,ひとはもはや他人が考えるように考え,感じるように感じるしかないような塩梅ではないか。「地獄,それは他人だ」,これはナボコフが毛嫌いしつづけたサルトルの『出口なし』結末の科白だが,まさしく今日,わたしたちが陥っているのは,そういう自他の区別も判然としない「一般性の地獄」にちがいないのである。

この出口のない「他人地獄」,「一般性の地獄」,「常識」の牢獄にも,唯一つ脱出口があるとすれば,それはナボコフにとって「文学芸術」を措いてほかにない。文学芸術は書き手にとっても読み手にとっても,純粋に個人的事件である。純粋にというのは,ナボコフふうにいえば,「万年筆の実体感」と「読書用の灯火の現実感」を死守するということだ。万年筆のインクはいかなる主義・通念・「常識」の毒汁によっても濁っていてはならない。読書用の灯火の笠はいかなる既成の読み方,たとえば象徴狩り,神話原型論,脱構築,ポスト・モダニズムと言った作品読解の現代の「常識」によって曇っていてはならない。「万年筆の実態感」「読書用灯火の現実感」というのは,そういうことだろう。そこにナボコフの非「常識」,個別への決然たる偏執と賛美がある。「一般にたいする個別の優越,全体よりも生き生きとしている部分の優越,周囲の群衆がなんらかの共通した衝動にかられて,なんらかの共通した目標をめざしているときに,一人の人間が目にして友情のこもった精神のうなずきの挨拶を送るささやかなものの優越」。書き手にとっても読み手にとっても,文学とはひっきょう,かかる「個別」「ささやかなもの」を目にして,不思議に思い,感動する「友情のこもった精神のうなずき」を措いてほかにない。ここにナボコフの美しい文章がある−–

「ささいなことを不思議に思う,この能力−–危険がいかにさし迫っていようとおかまいなしの−–これらの精神の傍科白,人生という本のこれらの脚注,これこそ意識の最高の形式であり,われわれが世界はいいものだと納得するのは,まさに常識やその論理とかくも違ったこの子供のような心の純な状態においてなのである」。

人生という本文は,誰のものであれ,いずれなんの変哲もない,あるようにあるしかないものであるだろう。それは必ずや「一般性の地獄」「常識」の牢獄であるしかないものであるだろう。この本文の地獄門,牢門がわずかに開いて,一瞬,めくるめく光がさすとすれば,それは文学という人生の「脚注」,「精神の傍科白」の瞬間以外にないだろう(pp. 405–406。下線は原文では傍点)。

授業で文学作品を扱う意味は、こうした認識のもと、授業を通じてなにがしかの具体的な「人生という本の脚注」に触れ、「友情のこもった精神のうなずき」を味わえるかどうかにかかっていると言いたい。

…というのは素人考えなので、授業で英文学を学ぶ学生に関わる者として、

を読んで勉強するとしましょうね。