[レビュー035] 『日本理科教育史』から学ぶべきこと(板倉, 1968)

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比較的、時間に余裕のある時期に進めておく作業として。

からの抜粋(引用は増補版から)。ついには英語教育の話でもないのだが、敷衍して小学校英語の教科書がどうなるか、あるいはどういう段階にあるかに思いを巡らせてもらっても構わない。少なくとも英語教育についても今こそこういう研究が必要だということは言える。

この新しい国定教科書『初等科理科』の基本的な性格、それは8年ほど前に現場の理科教師たちが新理科教科書の性格として要求したものをほとんどそのまま満たすものであった。その意味でこの新しい『初等科理科』はけっして『皇国の道に則」るという国民学校の精神から割り出されたものではなく、〈長い間の理科教育改革運動の成果を結実させたもの〉であった。教材は総合化されて、課の数は四年から六年まで55課隣、従来の142課と比べて3分の1に減少させられたし、教材のテーマも(中略)子どもの興味をひきつけるようなものが選ばれている。そして、児童用書の記述の形式もまた従来の国定『小学理科書』とまったくかわっている。(中略)

長年の現場の理科教育研究者たちの要求がやっとみのり、朝鮮の『初等理科書』や『満州理科学習帖』、信濃教育会の『理科学習帳』などに具体化されていた現場での長年の研究成果を吸収した新国定理科書『初等科理科』が生まれたのである。

『初等科理科』はその教科書の構成からみて朝鮮の『初等理科書』にたいへんよく似ている。子どもの興味をひくような生活上の問題をとらえて、課題式な記述方法をとっていることなどそっくりである。しかし、『初等科理科』は朝鮮の『初等理科書』にはない新しい特長も持っていた。それは、子どもにものを作り育てさせること、そのこと自体を理科の課題として豊富に取り入れていることである。(中略)

国民学校の新しい教科書による理科教育は、1〜2年が1941(昭和16)年度から、3〜4年が1942年から、5〜6年が1943年度から、高等科1年が1944年度からはじまり、中等学校の教科書『物象』『生物』は1943年に一二三年生用が発行され、文部省で作った国定『中等物象』『中等生物』による授業は1944年度から中学一二年で行われるようになった。つまり、これらの教科書は、すでに「大東亜戦争」(1941年12月8日〜1945年8月15日)がはじまり、やがて国民学校児童の集団疎開、中学校生徒の勤労動員によって国民学校も中学校もほとんどまともな授業が行われなくなった時期に使用されることになったのである。当時は教師の徴兵徴用が相次ぎ、実験/観察資材も極度に不足していた。したがって、これらの新しい理科教育のプランがまともに実施されることは、ほとんど不可能なことであった。

しかしそれにもかかわらず、国民学校の新しい教科書はかなりの成果をあげることができたものと思われる。筆者はこれまで、これらの教科書を用いて授業を受けた年代の人々と話す機会をもったときには、いつもそれらの人々が受けた国民学校時代の理科の思い出話を聞きただしたが、それらの人々の多くは「ニワトリを飼ったこと」や「紙ダマ鉄砲や卵のカラの潜水艦を作ったこと」を思い返すことができるのである。ところがそれより少しまえの『小学理科書』の時代の人々に聞きだしても、「桜の花のハナビラの数をかぞえたこと」ぐらいしか思い返せないのが普通である。そのことは敗戦後に小学校の理科教育を受けた人々についても同じである。それらの人々もまた、自分の受けた理科教育について印象深い思い出をもたないのが普通なのである。

このことからみると、『初等科理科』の作業理科のねらいは、その作業の末にきかれることになっていた「この実験でどんなことがわかりますか」とか、「そのわけを考えなさい」とか、「それはどういうわけですか」という問いを中心とした授業の成果を別とすれば、おおいに成功したということができるであろう。(中略)明らかに、国民学校の理科教育は、戦時中であったにもかかわらず、多くの教師の興味をよびおこし、かなり実際的な効果をあげることができたといってよいのである。

しかし、中等学校の『物象』『生物』の場合、この教科書がどれだけ効果をあげたか、それはたいへん疑わしい。この教科書は、国民学校の教科書の場合と違って、長い間の現場教師の理科教育研究運動の末に生み出されたものではなかったそれは、当時の中堅の物理学者/化学者/生物学者といった人々によって、ほとんど現場とは無関係に、しかも1〜2年という短時間の間に構成されたのである(pp. 406–407, 414–415。太字強調は引用者による)。

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