読み始めたら、そりゃあ止まらない。

すごい本だ。このすごさを十分に伝える力が私にあるとは思えないけども。

一気に読み終えて、ほとほと感服して思わず唸り、1月上旬にして2019年ベストの予感。文章は平易で、各セクションはコンパクトにまとめられていてテンポよく読み進められるが、内容はむしろ濃い。(われわれの分野で受け継がれてきた)教育方法学的授業づくりのエッセンス全部乗せの感があるくらいだ。藤岡『授業づくりの発想』から30年を経て、それと同じかそれ以上に今後読み継がれるべき一冊だと思う。

最近は、表面的な「分かりやすさ」への警戒感からそれを毛嫌いする風潮が一部にあるようだが、敢えて言おう。本書は本当にわかりやすい。浅い内容でわかりやすいのではなくて、わかりやすい文章で読み手が深く考えられるように書かれているのだ。並大抵の理解でできることではない。さっと読み流すことも出来てしまうが、よくよく噛み締めて読んでみると、本書を編むまでに、渡辺さんがどれだけ授業を見、実践し、(模擬)授業や検討会のことを考え、文献を渉猟してきたか(量で圧倒するのではなく質で勝負するブックリスト!)に感服せざるを得ない。コルトハーヘンらの『教師教育学』はちょっと読みにくく、学生や先生においそれと薦められるものではないのが難点だったが、本書ではALACTモデルが見事に昇華されて彼らに届けやすいものになっている。

何に唸ったかというと、構成の巧みさである。本書は8つのセッション+2つの付録で構成され、セッション1は小3理科の「物の重さ」から始まる。以降は様々な学年の社会、算数、国語、算数、社会、国語、音楽…と続き、一見して規則性や系統性はない。だが、各セッションで感じたモヤモヤや不足感が次以降のセッションで埋められるようになっており、こちらの思考を常に先読みされているようで悔しくなった(笑)。

例えば「物の重さ」で、「お、さりげなく仮説実験授業へ誘うのかな?!」と思いきや、模擬授業後の「深める」・「広げる」を経ても、登場人物たちは仮説実験授業の「ものとその重さ」の教育内容構成のような認識にはたどり着かない。これじゃ換骨奪胎だぜ!と思って読み進めると、次の「参勤交代」を扱うセッションで「授業のねらいは何か」という視点が導入され、教育内容構成を意識した議論が展開されるという仕組み。うーん、参った(参勤交代だけに)。その後も、しかしそんなに都合よく授業が進む想定で良いんかいな→間違い観の導入、手続きがスッキリしたのは良いけどつまんなくない?→感情の役割、これまで何を学んできたか次第で…→内容・経験の連続性と共通の足場、単元レベルで考えてほしいなあ→単元の中での位置づけ、展開の必然性大事にしたいよね→手立ての必然性、という具合で、最後はもう丸裸にされているような感覚だ。全部バレてる。

つまり、セッション8で本書全体が「表現と理解の相互循環」の実践だと述べられているように(p. 178)、本書全体を通じて模擬授業とリフレクションを通じて学んでいくプロセスが描かれているのであって、登場人物がいきなり熟練教師のような授業や振り返りをするのは不自然だ。わたあめ先生が「板倉さんはこう考えました」的な解説を与えてしまうことも渡辺さんは良しとしない。試みて感じたことをもとに一つずつふりかえって、考えてまた試みるべきなのだ。

読者もその過程を通じて、教師を目指す学生たちの学びを追体験する。最初は、子ども役の反応から問いかけの唐突さを実感し、「問いかけの前にどういう準備が必要だったか」に思いを巡らすのが精一杯。経験と省察を重ねて、「先生が説明する」ということに囚われすぎてないか、子どもたちはどこでつまずくのか、意見をたくさん出してどうしたいのか、ペアやグループで話し合うのは何のためかといったことに目を向ける余地が生まれていく。私自身も「模擬授業は児童・生徒役のうまさにかかっている」とよく学生に言うので、ミニレクチャーの「子ども役になる」に書かれていることは本当によくわかる。

だがしかし、と教育内容研究重視の研究室出身の私は、そして英語教育に特化して学生・先生と授業づくりを考えている私は思う。各教科の内容(に対する視点)はそれで良いのか、と。言い換えれば、「深める」や「クロージング」において、教科固有の問いや視点を添える必要性・可能性はないのだろうかという疑問だ。

例えば、「かけ算の問題づくり」において、「1あたり量×いくつ分」は意識されているが、単純な倍比例型や(面積を求めるような)複比例型には最後まで目が向けられない。そのどれが子どもたちにとってどういう理解の難しさや面白さを持っているのかということの検討は、あるいはその種まきはしなくていいのだろうか。「たとえをつかって文を書こう」で「比喩表現の面白さ」は説明されているが、ディスコースの中での比喩表現という観点では扱われておらず、それが物語を味わうため(つまり、読みの指導の一環として)のものなのか、言語体系の教育としてのものなのかは不明なままだ。単元構想によっては他のタイプの比喩表現との対比や整理も必要ではないか、等々。こうしたことは学生たちの課題意識にのぼるまで待つしかないものなのだろうか。付録セッションの外国語には「試みる」と「かえりみる」しか掲載されていないが、専門的にはやはり試みる以前に色々課題があり、私自身が担当している授業や現にいま実習先や現場で求められる授業の水準から見ても、試みる前に考えたほうが良いのではないかと言わざるを得ない。

こうしたことは、教科教育専攻の学生・院生がメンバーにいると検討会で出そうな意見でもあるので、メンバー構成による模擬授業研究会の課題なども含めて、今度渡辺さんとじっくり議論をしたい。

とは言え上記の疑問は、私が、実践記録を読み、本を通して理論を学ぶことに偏ってきた教科内容研究頭でっかち派であることを示しているのかもと思っている。そういう批判もさりげなくセッション7のクロージングに置かれていたりして、本当にスキがない(「すきです」のくだりだけに)。私自身、担当する英語科教育法の中で教科書の横読みは実践するし、縦読みの視点も提示するのだが、模擬授業にはそれがうまく活かされていないと感じていたりしたので、専門の授業の持ち方・構成について考え直す良い刺激となった。感謝。