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[レビュー101] Clandinin & Husu (Eds.) The SAGE handbook of research on teacher education
- Clandinin, D. J., & Husu, J. (2017). Mapping an international handbook of research in and for teacher education. In D. J. Clandinin, & J. Husu (Eds.), The SAGE handbook of research on teacher education (pp. 1−21). Sage.
教師教育研究ハンドブック読書会。全体像を得ましょうということで、Chapter 1の読み合わせ。全体の構成の説明を読んでいて、教師のアイデンティティや専門的主体性、道徳・倫理的責任の議論が、教授法や教科内容、あるいは力量形成といった議論よりも先に置かれているのが印象的で、国内の、例えば『教師教育研究ハンドブック』(学文社, 2017)などの構成とは大きく異なるところだと感じた。
Clandinin and Husu (2017)は、全体を通じた同書のフォーカスとして、「教師教育研究の積年の課題」を6点挙げている。
(1) 教師教育研究の境界の曖昧さ: 「教師教育って学校で教える教科知識を教えたり学んだりすることでしょう」という見解をもたらしてきた、(特定の教科)指導の研究と教師教育の研究の密接な結びつきの問題。同書では、教師教育学の「統合」(integration)に寄与するかどうかという観点から、まだ未探究の研究を切り開く可能性も見やりつつ、2つの分野が重なる境界領域の研究にハイライトを当てるという。
(2) 教師教育における研究における理論と実践の関係の可能性: しょっちゅう議論されていることではあるけれども、研究者の理論的立ち位置と、研究が実践に対してどう位置付けられているのかという問題。
(3) 教師教育や教師教育研究で使用される用語への関心: さまざまな文脈で用いられている用語が、対象としている現象の理解を表したり隠したりする問題。調べる手段だけじゃなくて、「概念」についてもっと考えようねと投げかける。例えば「教師を教える教師教育者」と言うのと「教師が学ぶ学習空間・学習機会を生み出す教師教育者」と言うのとでは、「教師教育者」という言葉の背後にある考え方がずいぶん異なるでしょう、と。
同書では、教師教育学の「統合」と同時に、「中断」(disruption)と呼ぶものも重視している。すなわち、あえて「裂け目」や「ひび」を作り出すことで、当然視していることに批判の眼差しを向け、そこから課題への新しいアプローチを見出したり、これまで耳を傾けられてこなかった声や理解が及ばなかった文脈に関心を向けようということだ。この立場からすると、(3)は私個人にとって最も関心のあるところで、典型的な規範的言説で構成された先生方の認識論を揺さぶる上でも、重点的に取り組む価値のある課題ではないかと思う。
(4) 教師教育に対する見方と教師教育研究に対する見方を広げることの重要性: そのままだが、後述。
(5) 教師教育研究の社会的・政治的文脈の扱い: 端的に言えば、教師教育のプログラムのフォーカスはどのくらい、目下の社会的・政治的な、あるいは文化的な文脈に置かれている(べき)か。同書は、教師教育を「集合的政治的実践」とみなす立場からの研究を含め、個人主義的な理論だけでは十分に理解できないということを強調している。
(6) 教師教育研究のギャップや沈黙に目覚めさせること: 上記の「中断」の議論にも関連するが、例えばいわゆる「第一世界」的な見方で教師教育が語られる際、アフリカやアジアの教員養成の問題がそこで現に問題になっているような形で問われることはない。Clandinin and Husu (2017)が、「教師教育研究には、英語で刊行される文献に含まれていない国々に学ぶ部分も与える部分も多くある」と指摘する際、日本はどう捉えられているのかは分からないし、議論が分かれそう。
議論が盛り上がったのは、(4)に関する記述で、Clandinin and Husu (2017)の慎重な書き振りを吟味した。著者らはまず、かつての「内容論争」と呼ばれるものに言及する。それは、教師教育者が、教える内容に関する知識よりも、教師を目指す者の信念や態度、気質のほうを気にかけていると批判された論争のことである。この論争によって、一部の人にとって「教師教育研究=学校の教科領域の研究」という考え方が作られ(てしまっ)たと指摘し、(a)教師教育研究に、特定の教科領域の研究だけではなく、認知やわざ(craft)、感情を含めることが重要であることは理解しているよと述べる。もちろんこれは前置きで、同書はもっと野心的に、(b)教師や教師教育者の道徳的信念や能力、彼らのエージェンシー、社会的・政治的見解と言ったものを教師教育に必須の要因として強調し、もっと教育を関係論的に捉えたいと続ける。教えることの道徳的性格がもっと前面に出されていいはずだ、と。同書が国内の教師教育の議論と比べて一歩先んじていると思わせるのは、(b)の指摘にとどまらず、教えることの道徳的特質・課題がきちんと特定されたとしても、教師教育者がそこに実効性を持たせるのは困難だと気づくでしょうと続けているところだ。(c)われわれはまだ、教師の専門的知識・技能を、教えるという道徳的職務にうまく結びつけたり概念化したりする建設的手段を持っていないでしょう、と。もちろん、その全側面が教師教育の中でどうやってうまい具合に成長していくかを計画したり把握したりする手段も。
だからこそ、教師のアイデンティティや専門的主体性、道徳・倫理的責任の議論が前の方に置かれているのだが、教師教育学会に(c)までを見越すパースペクティブが入るといいですね、と非会員は思った次第。