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[記事転載] 英語教師の専門性に期待するからこそ(『英語教育』2025年1月号)
大修館書店『英語教育』2025年1月号の第1特集「次のカリキュラムに望むこと 先取りパブリック・コメント」に寄稿した記事です。編集部の許可を得てこちらに転載します。
英語教師の専門性に期待するからこそ
今回の特集で、私には「個別最適な学び」やICT活用がもたらしている混乱の例を挙げて批判の声をあげることが期待されているのかもしれない[1]。しかし現行課程の折り返し時期に考えるべきことは、「新しい酒」よりもむしろ「古い皮袋」の方にあるのではないか。
「オーバーロード」を嘆く、その前に
授業を観に行くと、下のような形式で、その課に登場する語句とその意味が書かれたハンドアウトを生徒たちが持っている。様々なバリエーションがあり得るが、要するに日英語の対照表である。
語句 | 意味 |
divide | [動] 分ける |
between A and B | AとBの間の |
effective | [形] 効果的な、有効な |
approach | [名] 取り組み、手法 |
attitude | [名] 態度、姿勢 |
expertise | [名] 専門知識 |
プリント一枚に30以上の語句が並んでいる。地域によらず特に高校の授業で見ることが多いのだが、冒頭で導入あるいは前時の復習として、これを用いて教師が発音と意味を確認した後に、あるいはそれ無しに、生徒がペアやグループで英→日、日→英の問題を出し合う。私が高校生だった頃から四半世紀以上変わらない風景である。・・・学習指導要領はその間に3回も改訂されたのに?
ともあれ、その後に生徒は教科書の本文を読む。ここでは次の英文を例にしよう。“The dividing line between the more and less effective approaches we’ve looked at is in the attitude to teacher expertise.”[2] 多くの場合、「こんなに何もかも先出しして、生徒の読む意義や楽しみはどこにあると考えているのか」、「そう言いつつ、読む際に(あるいはその後の展開で)このプロセスを生徒たちが活かしているようには見えない。じゃあ何だったの?」という思いが私の胸に去来する。
前後の文脈を手がかりに上記の英文を「読んで」もらいたいなら、少なくともattitudeやexpertiseの意味を読む前に与えるべきではない。“teacher expertise”に対する“attitude”こそが著者の主張の(それと同時に本稿の)肝であり、その言わんとするところを考え理解することが読解なのだから。尤も、divideの意味を与えても生徒が“dividing line”を「分かれ目」といった表現で解釈できるとは限らないし、教師が解説しない限り“between A and B”のAとBがこの場合何になるかをつかめない生徒もいるだろう。そうだとすれば尚更、冒頭の意味の確認や、生徒が問題を出し合っている時間は何だったのかということを問わねばならない。
現行学習指導要領下において、「単語の数が多くて(生徒も教師も)大変」という声は研修等で先生方からよく聞く。受容語彙・産出語彙という考え方は本誌や書籍でも繰り返し言及され、その概念自体は先生方にも随分浸透したはずだ。しかしそれが、読むために必要な語句と読んだ後に使ってみて欲しい語句とを区別して、授業の展開に十分反映されているだろうか[3]。荷が重過ぎると嘆く前に、古い皮袋に溜まった澱を取り除く余地がないか検討してみたほうが良い。
「言語の働き」は機能しているか
「古い皮袋」をもう一つ挙げると、「言語の働きに関する事項」はいい加減見直したい。「いい加減」と書くのは、コミュニケーションを行う目的・場面・状況に応じ「英語を使って何ができるようになるか」が重視されるようになったにもかかわらず、「言語の使用場面の例」はひとつ前の指導要領から、「言語の働きの例」に至ってはその前の指導要領からほとんど変わっていないからである。指導要領解説では、各科目の「言語活動及び言語の働きに関する事項」において場面・働きについて詳しい説明が施されているものの、建付が悪いと言わざるを得ない。
より深刻なのは「言語の働きの例」のほうで、あえて言葉を選ばずに言えば、こんな言語(使用)観で談話能力が育つとは思えない。例えば誘いを「断る」場面で、ただ“I can’t go.”と伝えることができればそれでOKだろうか。最初のパフォーマンスはそこから始まるとしても、教師が自身の言語使用を振り返ってみれば、相手との関係や内容に応じて、前置きとして誘ってくれたことへの感謝を伝えたり謝ったりした上で、断った後に、その理由を述べたり、埋め合わせを申し出たりするのではないだろうか。
つまり、「言語の働き」は単独の言語行為で成立するものではないし、決まった言語表現を使えば必ずうまく行くとも限らない。一人のまとまった発言であれ2人以上で展開するやり取りであれ、自身が必要だと思う言葉を尽くして談話を構築する過程で、意図通りに実現されたりされなかったりするものである。
指導要領も「有機的に組み合わせて活用する」ことを求めているが、やり取りが深まりのない一問一答に終始し、もっといろいろとたくさん質問できるようになってほしいと先生方が願うにもかかわらず、生徒がそれに苦労する(さらに言えば先生方が「質問する」ことにこだわり過ぎてしまう)のは、これが元凶だとさえ思う[4]。われわれが考えなければならないのは、こんな平板なリストではなくて、児童・生徒がより適切な言語使用を志向して自身のレパートリーを組み合わせることによって言語行為を実現しようとする過程、その試行錯誤を可能にするアフォーダンスである。
「知識・技能」が見えなくしているもの
このように述べてきたものの、単元末の言語活動を構想し、思考・判断・表現の観点で評価規準/基準を設定・共有し、授業を展開することに(特に小中学校の)先生方は相当程度、適応してきたし、その妥当性は年々高まっている。一方で、その言語行為に必要となる言語能力、すなわち「知識・技能」の想定にはまだまだ課題がある。
その典型例が、「その課で導入した言語材料をすぐ使わせようとしてしまう問題」、さらに「それを減点法で評価してしまう問題」だ。つい先日も、3単現-sを導入した単元でmy heroや「推し」の紹介活動を行う際、知識・技能の観点で3単現-sを「正しく」使うことを求めるのは適切だろうかという相談を受けた。She likes Otani Shohei.と言わずに、Her favorite player is Otani Shohei.と言っても同じことは伝えられる。むしろ期待したいのはそれまでに学習してきた事項(動詞のバリエーションやbe動詞や代名詞)の活用である。とはいえ習ったことを活用したいという気持ちは生徒にもあるので、3単現-sが一度でも使えていたら(評価に加えるかフィードバックでの価値づけに止めるかは別として)喜んでいいのではないかと伝えたら、「目から鱗です」とのこと。こうした判断に苦慮している先生方は少なくないと思われる。
加えて私が問題だと思うのは、「知識・技能」という括り自体が、(上の事例でも顕著だが)先生方の意識を文法・語彙に偏らせ、各技能の習熟を分析的に捉える視点を弱めている点である[5]。視線や身振り、談話標識の使用といった領域一般的な規/基準を掲げて無駄とは言わないが、その言語活動で具体的に必要となる下位スキルが示されていなければ、生徒がそれを意識する可能性は低い。My heroや「推し」の紹介活動でも、視覚的資料の有無や、誰に向けてどういう場面で紹介するかによって必要な「発表」のスキルは異なる。より良いパフォーマンスのために生徒が欲しいフィードバックは、3単現-sを正しく使えたかどうかよりも、聞き手を惹きつけるためにどんな情報を足したら良いのかや、どのタイミングでどこを強調するかといったことではないだろうか。
教師がそうした実践上の知見を共有し、専門性を磨き合える学習指導要領であれかし。
注
[1] 実際そうしたことは既に、亘理陽一 (2022).「『個別最適な学び』の何が問題か」『学校教育研究』37, 70–83.や亘理陽一 (2022).「エンハンスメントとアダプテーション: デジタル・テクノロジーによる主体性の行方」『教育学の研究と実践』17, 14–22.などで論じているので、興味のある方はそちらを読まれたい。
[2] Christodoulou, D. (2020). Teachers vs tech?: The case for an ed tech revolution. Oxford University Press. p. 195.
[3] 「新しい酒」を意識するなら、出題する生徒が語彙学習方略を意識して、出題内容・方法を工夫すること(「自己調整」)が重要なはずだが、そういう思考を巡らすこともなく単純暗記を繰り返している姿に先生方は疑問を抱いてほしい。
[4] さらに言えば、「やり取り」が「話すこと」の下位領域に置かれていることに顕著なように、会話をメッセージの発信を中心に置いて捉えており、相手の話に耳を傾けるという視点が弱い(亘理陽一 (2021).「変わらない言語教育の課題と、言語教育の向かう道筋: 外国語教育を中心に」日本教育方法学会(編)『パンデミック禍の学びと教育実践: 学校の困難と変容を検討する』(pp. 120–133) 図書文化を参照)。
[5] この点についても、これまでに「[雑感073][対話編] もっと具体的なサブスキルを論じよ」(https://www.watariyoichi.net/2020/03/17/miscellaneous073/)や亘理陽一 (2020).「共通テストを見据えたリスニングの指導方法: Before/While/After Listeningのサブスキルの豊富化」『CHART NETWORK』91, 2–5.などで論じてきた。