[雑感064] 民間試験導入で失うもの

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大学英語入試に関する2月の東大でのシンポジウムが報告書にまとまってひと月以上経った。シンポジウムの前後に比べると反応が弱く、どのように受け止められたのかはわからない。

討論部分で「学習指導要領が高校の終わりまでにA2〜B1レベルの到達を求めている状況で、大学が『A1 以上でいい』と言えるかどうか」と発言したのだが、横浜国立大・上越教育大・福岡教育大・熊本大など、複数の大学が「A1以上」を出願資格とすることにしたようだ(資料)。このことが持つ意味について考える。

この件についてある新聞の記者から質問をもらい、私もこの状況に少し驚いていると返答した。上述の通り、建前とは言え、次期学習指導要領では高校修了までにA2〜B1レベルを目標とすることを謳っており、大学自らが、小中高の教育課程を修得主義ではなく履修主義的に捉えていると宣言しているようなものだからである(念のために断っておくと、A2以上であれば出願資格として課して良いと言いたいのでは決してない)。そういう意味では、そもそも文科省が外国語科に置いた「領域別の指標形式の目標」というのが、日本の中高大学生の実態からというより、諸外国との比較におけるメンツ等々から設定した理想に過ぎず、諸大学との接続を十分考慮して用意したものでもなかったわけで、履修主義と修得主義の止揚ではなく、矛盾の露呈の機能を果たしたとも言える。

上記の大学としては、自らの実態に即した格好であろう。東大で講演した際、私は多くの大学、特に国立大学はもっと体制寄りにお役所的メンツを重視するかと思っていたが(そうすると過去の受験生の実態に鑑みて出願資格にはできないので加点方式を選ぶことになる)、そこに付き合う気力もなかったのか、背に腹は変えられないのか、はたまた大学内での英語(担当者)の位置づけの低さのせいかはわからないが、結果として出願資格としての受験だけは必ず課すという、ヒドい選択となった(A1以上を出願資格として、レベルに応じて加点するというハイブリッド方式のところもあるにはあるようだが、ここでは出願資格としてのみ扱う大学を想定して論を進める)。

なぜ「ヒドい選択」なのか。たとえば江利川 (2019)は、「2020年度に民間試験を導入するという強行スケジュールを考えれば、当面の現実的な対応も必要であろう」と断った上で、「熊本大学のように受験生全員がクリアできるA1にすべきである」と述べている(p. 130)。

  • 江利川 春雄 (2019).「英語教育の『市場化』に未来はあるか?」『現代思想47(7), 124−135.

確かに、受験に伴う理不尽な経済的負担にさえ耐えられれば、英語運用能力の有無で出願資格に不利は生じないことになる。税金が増え(るのに加担し)た分、英語による身分差別の恐れは減る、というところか。しかし私は、この「ヒドい選択」のヒドさには、各家庭の経済的負担が増すこと以上のものがあると考える。それは東大での講演で、外部試験を有名無実化するために東大・名大が取った手段は賢いが(英語教育関係者は)長期的リスクを考えたほうがいいと述べたことに関連している。

そもそも大学英語入試への民間試験の活用というのは、言わば、自然には生じないところに交換価値を無理やり付与しようとする企てだ。これまで推薦入試や就職等において一部の人に求められてきた交換価値を、本人が使用価値を感じているかどうかにかかわらず受験生全員に押し付けようというのだから、それは混乱も必須であるし、その人為的需要(の圧倒的な拡大規模!)に民間試験団体が殺到するのも当然である。

大学が「全員がクリアできることがわかっているものの受験を必須にする(それ以上の扱いもしない)」というのは、この交換価値を再び限りなくゼロに近づけるということだ。その受験によって得られるのは「大学への出願資格」という交換価値であって、英語運用能力の試験としての交換価値は無に等しくなる。ハンコをもらうためだけの夏休みの朝のラジオ体操参加や、アリバイ作りのためだけの会議開催と同じようなものだ。本人が英語に対する使用価値を感じる以前に、大学入試において交換価値は無いと宣言しておきながら、その受験だけは強制するという暴力性は、長期的に見れば学校英語教育にトドメを刺す判断に思えてならない。「はいはい、受けさえすればいいんでしょ。罰金、払いますよ。でもセンセ、オレ、国数理で受験するんで英語なんてやる気ないし、授業もどうでもいいdeath, adios!」。

これまでの推薦入試や就職等の場合、英語教師の多くと同様に、もともと(英語運用能力のアセスメントなどの面に)使用価値を感じていた者が、それを交換価値として掲げるところにインセンティブを感じることが多い(逆に言えば使用価値を感じて来なかった者はその進路が魅力的に思えても諦めるよう仕向けられてきた)のだろうから、不満は、その資格・検定試験が自らの英語運用能力(の使用価値)を適切に表すものであるかどうかや、交換価値としての査定が適切かどうかに向けられる程のことであった。加点方式は、社会的・経済的環境に恵まれたのであれ本人の努力によるものであれ、この使用価値にある程度報いようとするものと受け取ることもできなくはない(受験条件の不平等の問題は別として)。この層にとっても、全員が受験するにもかかわらず志望先が全くそこに交換価値を見出さないとすれば、相対的に自分の価値を下げられたように見えるので決して面白くはないだろう。

尤も資格・検定試験団体の側は、儲かりさえすれば受験生にとっての英語運用能力としての使用価値や交換価値など歯牙にも掛けないのかもしれない。ある意味でそれが最も恐ろしいところである。そういう人たちがいる以上、英語を市場化・商品化しようとすることは止められないし、これまでも大なり小なりされてきた(し、さらに言えば英語教育関係者の多くがその恩恵に預かってきたのだ)。教育を市場化しようとすることも止められない。しかし公教育としての英語教育にとってその流れの先に未来はなく、むしろ江利川 (2019)が全体として論じている通り、それに抗い制御していくことこそが使命だと言える。だとすれば責任ある者のとるべき行動は、出願のための受験は要求しないと判断することであって、全員がクリアできる形だけの受験を全員に課すことではない。そうでなければ、公教育としての英語教育は二度死ぬことになるだろう。一度目は格差拡大の温床となり、これまで英語教師が果たしてきた役割を奪ったり毀損したりすることによって。二度目は、多くの生徒の中で英語が今まで以上に陳腐な道具と化し、自分にとって「どうでもいいもの」になることによって。

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3 thoughts on “[雑感064] 民間試験導入で失うもの

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      シンポジウムの資料を拝見する機会があり亘理先生のことを知り、注目するようになりました。この度の雑感に共感しています、気持ちも伝わります。そこで改めてとても素直な気持ちで向き合い直すと、英語の誤った市場化・商品化には、英語を要素として含む、上位のコンセプトの市場化・商品化で対抗しないと現実は動かないのかなとも思ってしまいました。拮抗状態の永続化が意図せざる帰結点だと困るだけに。例えば習得の実情はクラッシェンと+ライトバウンで間に合い、身体性を伴うあらゆる実技は「意図的に何かをしている内に、気がついたらできるようになっていた」というドラマであることが多いことを鑑みると、個人的に研究者に期待すべきことは何なのか、前向きな意味でわからなくなる感じがしています。個人的にはそこにポテンシャルを感じますが、いかがでしょうか。イキナリ長々と大変失礼致しました。

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        松岡さん、コメントありがとうございます。あらゆること、特に英語(学習)やそれにまつわる体験のコモディティ化が避けられないわけで(現にフィリピンとのSkype英会話レッスンや短期留学体験などが中高に降りてきている現状に鑑みれば)、松岡さんのおっしゃる「上位のコンセプト」の方向も一つあるだろうとは思っています。そして、他方の搾取や文化的まやかしの構造に批判的警鐘を鳴らし続ける役割が研究者に課されると思います。

        課題は、よりマシな言語使用・受容経験をよりマシな形でコモディティ化できたとしても、それに要するコスト等を考えると、結局一部の豊かな人たちが享受できるものになってしまって新たな質の格差を招き兼ねないということです。

        なので私としては、近視眼的な技術主義のくびきから英語教育論が脱するためには、長期的にみて、公教育としての外国語(英語)教育を目的論のレベルから編み直すことがもう一方向として必要だと感じているところです。私個人は、コミュニティにおける外国語(使用者)の現状と対峙し、実際にかかわり、言語(学習)観を批判的に鍛えていくような教科目的論が必要だとあれこれ考えています。具体的に言えば、なんとなくのカッコよさで英語をまとっている風景から、外国語話者を「ガイコクジン」として扱っているコミュニティの現状、外国籍の人たちに対する人権が守られているかといった社会問題までを、他人事ではなく「わがこと」として引き取っていけるようになる教科としての再編です。そうした合意が日本で形成できるかどうかは心許ないところですが、私の実践的取り組みを裏付けに、理論的なところは固めておきたいと考えています。

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      ご返答ありがとうございます。考えてみる必要のある材料をいくつも頂き、有難うございます。私の言葉が足りなかったところですが、上位のコンセプトというのは、松下村塾や適塾のように、その体質がコモディティ化ではなくなる集団だから上位なのかなと思っていました。それはさておき、亘理先生の仰る「目的論のレベルから編み直すこと」は、私もいつも身近に感じていました。先生が目的論の手入れに身を入れてらっしゃるように、わたしも英語を要素として含む上位概念を引き受ける(責任感)意外に、現実を動かすパワーは原理的に出せないのかなと僭越ながら認識しておりましたもので。しかし、こんな自論の正統性なんて個人的に本当はどうでも良く、亘理先生のコミュニティをめぐる実践に興味がわきました。

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