いわゆる「ホラー映画」はあまり好きではない。昔からゾンビ・死霊ものや(最近よくある)正体不明恐怖系の映画が好きになれないし、あるいは『SAW』なんかも、悪趣味過ぎるのが良くないのか、1しか観てない。
だから、
- 荒木飛呂彦(2011)『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』集英社〔集英社新書0595F〕
は当初、ジョジョを愛する者として帯や挿絵目当てに購入した。
いわゆる「ホラー映画」はあまり好きではない。昔からゾンビ・死霊ものや(最近よくある)正体不明恐怖系の映画が好きになれないし、あるいは『SAW』なんかも、悪趣味過ぎるのが良くないのか、1しか観てない。
だから、
は当初、ジョジョを愛する者として帯や挿絵目当てに購入した。
英語教師は、とかく「英語力」の高低に関して批判にさらされる*注。思い出混じりの恨みつらみに始まり、何らかのスコアや資格を満たさない教師はダメだとか、ヒドい場合は「○○ができない/△△を知らない教師は辞めるべきだ」(○○/△△には、英語教師に必要だとされている技能・知識を当てはめてみると良い)などとまで。私個人に向けられていると捉えれば、甘んじて受け入れるときもあるし、ひたすら哀しくなることもある。最近もそういう言説を目にした。うまくまとめられないが、考えるところを述べておく。
以前Twitterで流れてきた「have toとmustは同じ意味なのに…」に触発されての投稿。書きかけで放置していた。来月初めの一斉更新企画まで取っておいてもよかったけれど、台風の間に間に。
かつて雑誌「教育」(国土社)において、黒川泰男『明日の英語教育を考える』(1979年、三友社)の書評に端を発する、号をまたいでの「論争」があった(菅野 1980; 小山内 1980; 早川 1980)。資料整理中に見つけて読み返してみると、30年以上前のやり取りであるにもかかわらず、先日の学習英文法シンポジウム(の提案・議論)が思い返されるところが少なくなかったのでまとめてみる次第(「われわれは歴史を知らな過ぎる」というコメントもあったので)。長文、ご容赦願いたい。
文法指導を対象としたものではないが、最近刊行された
Thornbury (1999)は、「なぜ文法を教えるのか」(Why teach grammar?)という章(pp. 14-28)で、文法指導に対する賛否両論と教授法の略史を概観した上で、「文法指導の基本原理」(basic principles for teaching grammar)について述べている。引用が長くなるので、まとめだけ引用する(Thornbury 1999: 28; 塩沢訳 2001: 49-50。つーか、値段高ッ)。
日曜日の朝日新聞書評欄で、『隠れていた宇宙』という本が紹介されていた(2011年9月11日朝刊14面)
あのとき別の選択をしていれば––人生は常に後悔に満ち、人は常にあり得たかもしれない別の世界を夢想する。そして星の彼方や次元のひだの向こうに、その別世界が実在してほしいと願う。無数の小説や映画のテーマとなったそんな夢が、本書の第一のテーマだ。
本書の描く最先端の物理学モデルによれば、無限の変奏を繰り広げる無限の宇宙がある−−それも九通り。が、そこにでかけることはおろか、その様子を見ることも通信もできない。モデルが「ある」と言うだけだ。さて、それは本当に「ある」のか?それが本書第二のテーマとなる。
© 2021 静岡大学 教育学部 英語教育講座 亘理研究室
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