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日曜日の朝日新聞書評欄で、『隠れていた宇宙』という本が紹介されていた(2011年9月11日朝刊14面)

あのとき別の選択をしていれば––人生は常に後悔に満ち、人は常にあり得たかもしれない別の世界を夢想する。そして星の彼方や次元のひだの向こうに、その別世界が実在してほしいと願う。無数の小説や映画のテーマとなったそんな夢が、本書の第一のテーマだ。

本書の描く最先端の物理学モデルによれば、無限の変奏を繰り広げる無限の宇宙がある−−それも九通り。が、そこにでかけることはおろか、その様子を見ることも通信もできない。モデルが「ある」と言うだけだ。さて、それは本当に「ある」のか?それが本書第二のテーマとなる。

SF好きにはたまらない設定とその描き方の徹底ぶりには、クリストファー・ノーラン監督『メメント』(2000年)を初めて観た時のような新しさを感じた。時間軸をさかのぼったり、切り離したりするのではなく、それが(複数の視点からではなく「同一人物」のものとして)幾層にも重ねられるという不思議な感覚。同時に、ベルナルド・ベルトルッチ監督『ドリーマーズ』(2003年)などを思わせる、哀しくも幻想的で耽美的な映像の挟み方にも関心した(特に思春期から青年期の主人公に起こるアレコレ)。突然のシュール過ぎる演出や、カメラ・アングルの豊富さも面白かった。一見すると些細なシーンにものすごくお金がかかっているはず。

その一方で、約2時間20分のあいだ、「無限の変奏」にも似た展開がもたらすモヤモヤ(人によってはイライラ)を観ている側も共有しなければならない。だから、誰かと一緒に見に行きたい映画という感じではなかったし、人に薦めるかと言われれば悩む(のにこうして記事を書くのは矛盾している気もするが)。幾層にも重ねられるエピソードのモザイクがとっ散らかってしまわないように、つなぎ目には色々と工夫が凝らされているし、ある程度収束してSF的には悪くない、示唆的・哲学的ラストになっている。しかし、設定の面白さという意味でクリストファー・ノーラン監督『インセプション』(2010年)や、映像美という意味でターセム・シン監督『落下の王国』(2006年)などの「興行映画作品」としてのバランスと比べてみると、もう少し単純でも良かったかなという気がする。ひも理論やエントロピーの(わりとちゃんとした)説明が作品として必要だったかどうか(それ自体を劇中劇としてメタ的に見ようとする感じは嫌いではないが)。。。この辺は、チャーリー・カウフマン監督『脳内ニューヨーク』(2008年)を観た時の感覚に似ている。

でも、『脳内ニューヨーク』と同様、余韻は続いている。上記のような仕上がりのおかげか、日に一度しか上映がなかったにもかかわらず、ほとんど貸し切りのような状態でどっぷり浸れた。広いスクリーンに観客は私と中年夫婦1組だけで、内容に頭をよじらせ、別世界を漂っているその状況自体がまたなんとなくシュールという、貴重な経験をさせてもらった。