[本][旧記事] アフター「学習英文法シンポジウム」: 毛利可信『英語再アタック 常識のウソ』

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松井先生が事前公開質問中でも触れ、江利川先生が(ブログでも応答し)シンポジウムでも絶版の状況を嘆いた

(私は、勝手に小野経男(1987)『意外性の英文法』大修館書店と勘違いして持っていると思っていたのだが、そう言えば図書館で借りて済ませたのだったorz)。

前2つの記事で引用した

も絶版(中古で比較的安く入手できそうなのが救い)。

大津研blogで挙げられていた

も絶版。こうやって見てくると、「学習英文法」について考えようにも、大事な文献がそれほど入手しやすい状況にはないことが分かる(あちこちの図書館にはあるだろうが)。昨日の聴衆の雰囲気をみると、Grammar and the Language Teacherの邦訳あるいは解題を多くの人が手に取りやすい形にしておく意義は依然としてあるように思う。

ところで、私自身が修論や博論に対して多くのヒントをもらったのが毛利可信先生の著作である。中でもあまり知られていない(というよりも流通していない?)のが残念なのが、

(出会った時は「何このタイトル、ウケるw」と思っていたが、いつの間にかこの年齢を過ぎていたな…)。一般の社会人向けに非常にかみくだいた記述をしているが、言語学的研究の成果や(その当時の)教科書検討にしっかりと依拠しているという点で、前記事の分類で言えばレベル4に位置づくものとみなしたい一冊である。これも絶版だ…。

例えば先日、

を手に取った(今までの文献を持っているので、「重いな…『総合英語Forest』に取って代わろうという感じのアレかしら」とか思いつつ)。名詞の可算性や時制・相の基本的な説明、コアの説明はともかく助動詞の用例対比は−−特にreceptiveな面の学習において−−相変わらずappealingなものがあると私は思う(そのまま単独で使ったことはないが)。

「否定」や「比較」について独立した章を設けてくれているのも嬉しい。例えば比較の章の冒頭(p.283)でas … asが表すのは相対比較であるという事実に分かりやすく触れているが、このことを最初に、他の典型的比較表現と関連づけてより包括的・根源的に私に教えてくれたのは毛利(1987)である(「longest>longer>long この不等式は正しいか」,pp. 144-152.)。

毛利(1987)はそれにとどまらない。例えば大西&マクベイ(2011)はas … asについて、「as … as 〜は同等のレベルをあらわす表現(〜と同じくらい…)です。asは『=』をあらわす表現」(p.283)としている。これは危うい。asが同等性を示す主要な標識だということはHuddleston & Pullum (2002)でも確かに指摘されていることだが、それを「=」としてこのように提示してしまうと、その否定のnot as … asが(記号で示すと)「<」となる事実と整合性がとれなくなる。as … asは「同じか、それ以上」であって、仮に不等号で示すのだとすれば「≧」とすべきものである(Mitchell 1990: 59-61; Huddleston & Pullum (eds.) 2002: 1101; 亘理 2006)。

毛利(1987)はこのことにも目配りがきいていて、

…たとえば、
(9) How happy are you?
あなたはどんなふうに幸福ですか?
は、単に〈幸福度〉の目盛りを聞いているのでなく、相手がある程度幸福であることを前提としています。
また、次のような〈同等比較〉にも注意がいります。
(10) Jane is as happy as Susie.
ジェーンはスージーと同じように幸福だ。
は、〈ふたりとも幸福であり、しかも、その度合いが一致してる〉ことをいっています。これは(oldの場合に起こり得るような)〈単なる目盛りの一致〉などではありません。従ってこの(10)の文は〈ふたりの幸福度は同じように低く、ふたりとも不幸だ〉という意味にはならないのです。

と解説している(毛利 1987: 151-152)。形容詞の意味のタイプに応じた一般的な説明を与えているわけではないが、as … asがどういう場面で使われる(ことが多い)かと言えば、「AとBがまったく同等だと言っているのではなく、Aを過小評価してはいけない」という意味を伝えるためだというミントン(2004: 36)の指摘につながる解説である。このことの理解がなければ(「感覚」「イメージ」という言葉を使っても構わないが)、大西&マクベイ(2011: 285)が次に挙げている

  • She isn’t as attractive as Sarah.(下線は原文では網掛け)

という文が、二人とも(話し手から見てある程度)魅力的であることを前提としており、

  • She is as unattractive as Sarah.
  • She is more unattractive than Sarah.

などとは根本的に違うのだということに気づかない恐れがある。それは、(not) as … asの意味・用法を正しく教えるpegagogical grammarの内容とは言えず、まさしく「学習者を泣かせるような哀しいウソ」になってしまいかねないと私は思う(というか、高校生の私は泣いた)。

一例ではあるが、毛利(1987)には、私のようなある意味でメンドクサイ学習者を唸らせるキレ味と深みがある。

文献(amazonリンクを貼ったものは省略):

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