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最中にTwitter (#keiopg)でも色々つぶやいたが、10日の学習英文法シンポジウム(慶應大学)に参加した。事前に資料も入手でき、多くの「気づき」を与えてもらった。まずは関係各位の準備や運営の労に敬意と謝意を表したい。ただ、各登壇者に松井先生が投げかけた問いを引き取って深めるやり取りが十分だったとは思えず、残念さも残った。それは、このテーマで論じるべきことの広さ・多さのせいとも言えるし、各人(登壇者・討論者だけでなく、参加者全員)の持つ前提やスタート地点の問題のせいの気もした。

特に気になったのは、つぶやきでも多少触れたが、「学習文法」という概念の整理や他との関連が曖昧なままだったこと。日本の英語教育におけるその必要性や歴史的変遷については江利川先生が触れたが、ownricefieldさんのブログでDirven (1990)や馬場(1992)が引かれているように、”pedagogic(al) grammar”それ自体についての先行研究が少なからずある。「日本人の英語学習にふさわしい英文法の姿を探る」のが目的とは言え、こうした研究に全く言及がないのは逆に不自然であろう(そもそも”pedagogical grammar”は当日活用されたTwitterのハッシュタグ #keiopg でのみ言及された用語とも言え、今回の「学習英文法」が”pedagogic(al) grammar”と同じものを指していたかどうかは定かでない。しかし、そうだとすればなおさら諸概念の関係の整理が必要だろう)。

“pedagogic(al) grammar”については――「教育文法」という訳語で――拙博論の位置づけを述べる中で論じたことがある。「教育内容」と「教材」の区別について触れた以前の記事と一部重複するが、引用する(亘理 2008: 51-55; 図を示す記号等を一部修正した)。長いので読み飛ばしていただいても構わない。引用に続けてシンポジウムの雑感を述べる。

言語教育における本論のアプローチの端緒は,言語学と教育実践の仲介役を担うものとして提起された「教育文法」(pedagogic(al) grammar)に求められる(Stern 1983: 175)。これはもともと,言語学的な分析の結果を直接シラバス開発や言語の文法教育に当てはめようとするのは浅薄だという見地から,聞き手・読み手に応じた文法記述の必要性を訴えるNoblitt (1972)やCorder (1973)を嚆矢とする概念である(Stern 1983: 175-7; Stern 1992: 131-2)。

Noblitt (1972)が目標と教育環境,記述的・対比的データ,四技能および到達度(初級・中級・上級)に基づく情報の配列,評価手順といった諸要因を教育文法の要件としていたのに対し,Corder (1973)は次のようにそれを段階的な応用(application)のプロセスとして提案した(Noblitt 1972: 316-27; Corder 1973: 156 ; Stern 1983: 175-6)。つまり,理論言語学の諸概念は,第一段階で言語資料を分析し,第二言語の記述をもたらすために利用される。さらに対比分析や誤り分析に基づいて,第二段階ではシラバスを構成する言語内容の目録が,第三段階では教材が決定される(Stern 1983: 176)。

(図略)

「授業の過程を,この過程を構成するさまざまな要因の複合としてとらえた上で,教授学の目標をそれらの諸要因の相互関係を明らかにすることにおく」のではなく,「授業の成否をきめる決定的なモメントを教育内容の科学性とそれに基づく教材の具体的展開であるととらえる」本論の立場から見ると,上図は,教育内容構成に必要な「組み換え」を明確にしようとしたものとして評価できる(藤岡 1976: 15; 高村 1972: 9-10; 1976: 53; 藤岡 1981: 197-8)4)。ただしCorder (1973)は,印刷物や録音教材に頼らずとも文法指導は可能だという意味で「『教育文法』としての教師」という言い方もしており,教育内容や教材の概念が明確に意識されているわけではない(Corder 1973: 346-8)。加えてCorder (1973)は,Sweet (1900-1903),Jespersen (1909-49),Poutsma (1914-29),Kruisinga (1925-32),Curme (1931-35)などのいわゆる伝統文法に「あらゆる母語話者が非明示的に知っていることを体系的で明示的なものにする」という――言語学者向けの専門的文献とは異なる――啓蒙的ねらいがあったことを指摘しつつ,さらに読者を区別して,外国語の教師向けの文法として,あるいは学習者の中に文法能力が育つ助けの役割を果たすものとして教育文法を提案していた(Corder 1973: 325-32; 村野井 2006: 91)。つまり,上の図にはいくつかの性格の異なる聞き手・読み手に対する「文法」が混在しており,教育内容や教材の組み換えに対応した概念として教育文法を用いるためには,それぞれの位置づけを明確にする必要がある。

(図略)

Stern (1992)は,上図のように,文法指導の基礎をなす概念レベルのモデルを提示している(Stern 1992: 131。一部表記を改めて引用)。レベル1は,英語に限らない,言語一般についての理論を指す。つまりこのレベルでの考察が,…(中略)…基底にある言語観・文法観を与えることになる。したがって,以降のレベルでの個別言語の文法記述は,それが理論的に依拠する学派――例えば,生成文法なのか機能主義的文法理論なのか認知文法なのか――によって異なってくる。次のレベル2の研究は,その理論的モデルを検証するため,あるいはその言語のより妥当な記述に貢献するために行われ,そこから「その言語のできるだけ十全な記述を構成する多くの研究の合成写真」として,レベル3の「言語学的文法」が与えられる(Stern 1992: 131)注)。レベル3の例としてQuirk et al. (1985)が挙げられており,Corder (1973)の挙げた伝統文法もここに位置づくことになる。本論でも,その時点での研究成果をまとめた包括的文法書をレベル3とみなし,その記述の出所として,あるいはそれとは独立の個々の文法概念についての言語学的研究をレベル2とみなす。

注)ただしStern (1992)のモデルでは,レベル2が――Lyons (1995)が‘peformance’概念について指摘したように――過程(process)としての研究を指すのか産物(product)としての研究を指すのか必ずしも明らかではない。

Stern (1992)は,レベル4に位置づけた教育文法を,言語学的文法を「われわれに役立つようふるいにかけ,それを文法的事実が用いられる実践的状況に関連づけ」たものと捉え,一例としてCelce-Murcia and Larsen-Freeman (1984)を挙げている(Stern 1992: 131-2)。したがってStern (1992)の教育文法の捉え方は,対象となる読者の点で,外国語の教師向けの文法というCorder (1973)の見解と軌を一にするものである。一方レベル5には,教育内容としての「教授文法」(teaching grammar)・「学習者文法」(learner’s grammar)・「文法シラバス」(grammatical syllabus),および教材(course materials)とそれを用いた実際の授業が位置づいている。したがって,Stern (1992)における教育文法は,言語学的文法でも教育内容・教材でもない何かであり,対象の違いよりも重要なのは,その性格と上下の組み換えの性質である。

…(中略)…

小山内(1985)は,「科学文法」に対する,学校教育の一環としてのTEFLにおける「教育文法」を「英語学習が,より多くの生徒によって,より速く,より愉快に,よりたやすく行われるようにするための,『縁の下の力もち』的文法」と性格づけ,その作成に際しては,「学習者によって内面化され言語運用の基礎となる文法の内容はどのようなものであるべきか」という言語学的側面と,「それをどのように教材・教具化するか」という教授学的側面に注意が向けられなければならないと述べている(小山内 1985: 231-2)。レベル4を中心としてみれば,小山内(1985)の言う言語学的側面はレベル3からの組み換えに,教授学的側面はレベル5への組み換えに概ね該当する。

「より多くの生徒によって,より速く,より愉快に,よりたやすく行われるようにするため」に教育文法に求められる要件としては,Swan (1994)やLeech (1994)がより詳しい考察を行っている。言語学的側面についてSwan (1994)は,「教育的言語規則」(pedagogic language rules)の設計基準として次の6つを挙げている(Swan 1994: 45-53)。

  • a. 真であること(truth)
  • b. 使用範囲の限界を明らかにすること(demarcation)
  • c. 明確であること(clarity)
  • d. 単純であること(simplicity)
  • e. 概念的複雑さを最小限にすること(conceptual parsimony)
  • f. 学習者の英語に関する問いに答えるものであること(relevance)

一方,Leech (1994)は「教師の文法」(teachers’ grammar)を,理論的で記述的な「学問的文法」(academic grammar)と,実践的で精選され順序だてて並べられた「学習者向けの文法」(grammar for learners)との間にあって,両者を仲介するものとみなし,この文法の知識とともに教師に求められる能力や姿勢を次のようにまとめている(Leech 1994: 17-8)。

  • a. コミュニケーション体系として文法が語彙とどのように相互作用するかとうことについての感覚を効果的に伝える能力
  • b. 学習者が遭遇する文法の問題を分析する能力
  • c. 特に学習者による文法の使用を,正確さと適切さ,表現性に照らして評価する能力と自信
  • d. 母語と外国語の対比的関係に自覚的であること
  • e. 様々な学習段階で、明示的な文法知識を学習者に最もうまく提示できるような単純化の過程についての理解と実践

いずれの考察も何をもってその要件を満たすと言えるのか十分に明らかになっているわけではないが,見方を変えれば,明示的であれ非明示的であれ,全面的にであれ部分的にであれ,このような観点から文法を説明したものをレベル4の先行研究とみなすことができる。つまり,これまで日本のTEFLの文法指導を実質的に牽引してきた教師の参考書としての文法解説書の大半が,ここに位置することになる。ただし,文法的知識を形成する領域の教育内容構成論は,このレベルの内容を所与のものとしてそこにとどまるわけにはいかない。Swan (1994)やLeech (1994)の基準・要求について具体的に明らかにするような組み換えについての仮説を盛り込んだ教育内容と,それを学習者に提示可能な形で具体化したもの,ないしは実際の授業の記録をレベル5に位置づけ,本論自体がこのレベルの構成要素となることが求められている。

今回のシンポでは、「学習文法」あるいは”pedagogical grammar”という言葉が「教師のための文法」という意味なのか、「学習者のための文法」という意味なのか、両方なのか、そもそもその区別が不要なのかといったことにはほとんど全く言及がなかった(個人的には、”pedagogical grammar”という用語には「教えるための」「授業のための」という意味合いが含まれているように感じたが…)。上のStern (1992)に基づく図で言えば、田地野先生や山岡先生は明確にレベル5の話をしていたと言えるだろう。レベル5だけに特化して、下のレベルで依拠するものが違っても構わないから、というよりもむしろ違うであろう様々な立場の人と侃々諤々やっても良かったのではないかと思う。そうすれば、「間違いすらできない日本人英語学習者にとっては少しでも前進」(田地野先生)ではないかといった両先生の取り組みの意義をappreciateした上で、それは学習者にとってinterestingなのかといった次の、異なる質の議論ができたのではないだろうか。

一方で斎藤先生は、レベル3の「文法」を引き合いに出し、「教師は文法を研究し続けるべきで、何をどのように教えるかは学習者の特性等に応じて『適宜』判断すべし」という主張だったので、少なくとも私はその間を埋める議論が必要だったのだろうと感じた。参加者の多様性を考えれば鳥飼先生の外国語教授法の変遷の整理もあって良かったのかもしれないが、「二者択一からの脱却を目指」すとしていただけに、「行動主義的な古い教授法vs.…」とか「帰納的か演繹的か」、「子ども/大人」、「入門/上級」といった二分法的な整理の仕方が気になった。変遷から何を掬い取って止揚するかが肝心なところだと思うのだが。。。文法指導(教材)の方法論については例えば、Larsen-Freeman (2002)の提起や、選択の幅について包括的な整理を試みているEllis (2002)などをたたき台にすることができよう。

フロアにいた安井先生の「英語はteachできないけどlearnはできる。…我々はそれを助けることはできる」という意見は、Krashenの主張のような意味ともまた違って、「馬を水飲み場に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」の格言程度に捉えておきたい。そうしないとレベル3からレベル5に「橋渡し」する過程での教授者の役割が曖昧なものになり、「手助け」とかfacilitatingといった用語の安易な使用でお茶を濁されたり、ヒドい場合「learnしないのはお前が悪い」といった教える側の免罪符にもなりかねないからだ。そもそもこの意見も、「学習英文法」が”teaching grammar”と”learning grammar”とを未分化なまま併せ持っていることに起因すると言えなくもない。

大津先生の「深追い」に対する戒めは、レベル3からレベル5へ至る「変換」の議論として首肯できるものであるが、特に今回のシンポジウムはそこが核心だと考えていたので、Swan (1994)の基準のような形で精緻に論じて欲しかったところである。それだけに「やさしいウソ」というのは――ネタも含めて、参加者の実感としては腑に落ちるところが多かったのかもしれないが――「子ども騙し」という解釈を許容するおそれがあり、承服しかねる表現であった(Leech (1994)も”Processes of simplification”といった言い方で同種の議論をしてはいるのだが、例を見る限り、Swan (1994)の掲げた(a)-(c)に抵触するという意味で、私はLeech (1994)のこの部分の主張も承服しかねる)。

“Pedagogical grammar”という概念の位置づけや整理に引き付けて言えば、以上のようなことをつらつらと考えた。

文献(遺漏があったら指摘して下さい):

  • Bygate, Martin, Tonkyn, Alan and Williams, Eddie (eds.). (1994). Grammar and the Language Teacher. New York: Prentice Hall.
  • Celce-Murcia, Marianne and Larsen-Freeman, Diane (1991, 19992). The Grammar Book An ESL/EFL Teacher’s Course. Boston, MA: Heinle and Heinle.
  • Corder, S. Pit (1973). Introducing Applied Linguistics. Harmondsworth, Middlesex: Penguin.
  • Curme, George Oliver (1931-35). A Grammar of the English Language (3 vols.). New York: D.C.Heath.
  • Ellis, Rod (2002) “Methodological Options in Grammar Teaching Materials.” In Hinkel and Fotos (eds.). pp. 155-179.
  • Hinkel, Eli and Fotos, Sandra (eds.). New Perspectives on Grammar Teaching in Second Lanaguage Classrooms. New York: Routledge.
  • James, A. and Westney, P. (eds.). (1981). New Linguistic Impulses in Foreign Language Teaching. Tübingen: Gunter Narr.
  • Jespersen, Otto (1909-49). A Modern English Grammar on Historical Principles (7 vols.). London: Allen and Unwin.
  • Kruisinga, Etsko (1925-32). A Handbook of Present-Day English (4 vols.). Groningen: P. Noordhoff.
  • Larsen-Freeman, Diane (2002). “The Grammar of Choice.” In Hinkel, Eli and Fotos, Sandra (eds.). pp. 103-18.
  • Larsen-Freeman, Diane (2003). Teaching Language: From grammar to grammaring. Boston, Mass.: Thomson Heinle.
  • Leech, Geoffrey N. (1994). “Students’ Grammar―Teachers’ Grammar―Learners’ Grammar.” In Bygate, Tonkyn, and Williams (eds.). pp. 17-30.
  • Lyons, John (1996). “On competence and performance and related notions.” In Brown, Gillian, Kirsten Malmkjær, and John Williams (eds.). Performance and Competence in Second Language Acquisition. Cambridge: Cambridge University Press. pp. 11-32.
  • Noblitt, James S. (1972). “Pedagogical grammar: towards a theory of foreign language materials preparation.” IRAL 10: 313-31.
  • Poutsma, Hessel (1914-29). A grammar of Late Modern English (5 vols.). Groningen: P. Noordhoff.
  • Stern, Hans Heinrich (1983). Fundamental Concepts of Language Teaching. Oxford: Oxford University Press.
  • Stern, Hans Heinrich (1992). Issues and Options in Language Teaching. Oxford: Oxford University Press.
  • Swan, Michael (1994). “Design Criteria for Pedagogic Language Rules.” In Bygate, Tonkyn, and Williams (eds.). pp. 45-55.
  • Sweet, Henry (1900-1903). A New English Grammar: Logical and historical (2 vols.). Oxford: Clarendon Press.
  • 小山内洸(1981, 19852)「『教育文法』の内容と方法」黒川泰男・小山内洸・早川勇『英文法の新しい考え方学び方:日英比較を中心に』三友社出版,pp. 210-63.
  • 高村泰雄(1972)「教授学研究の方法論的諸問題(その1)」『北海道大学教育学部紀要』〔No.19〕,pp.1-13.
  • 高村泰雄(1976)「教授過程の基礎理論」『教育の過程と方法』〔講座・日本の教育:6〕新日本出版社,pp. 39-78.
  • 藤岡信勝(1976)「僻地における社会化教育内容の研究・第一報:中学校社会科『産業革命』の授業(その1)」『僻地教育研究』〔第23巻第1号〕北海道教育大学僻地教育研究施設,pp.15-30.
  • 藤岡信勝(1981)「社会科教材づくりの視点と方法3:二つのレベルの『組みかえ』」『教育科学 社会科教育』〔No. 217〕明治図書,pp. 94-100.
  • 村野井仁(2006)『第二言語習得研究から見た効果的な英語学習法・指導法』大修館書店
  • 亘理陽一(2008)「外国語としての英語の教育における文法的能力を形成する領域の教育内容構成に関する研究:語用論的原理に基づく比較表現の指導」北海道大学博士学位論文