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[メッセージ][本] ぼくらが翻訳の旅に出る理由

[メッセージ][本] ぼくらが翻訳の旅に出る理由

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期せずして、同時期に2冊の訳書を上梓することとなりました。取り掛かっている時期に多少の重なりはあるものの、結果としてどちらも5月末の刊行となったのは全くの偶然です。

翻訳の経緯や私が果たした役割は、どちらも「訳者あとがき」に記されています。ぜひ手にとってお読みいただければ幸いです。サマラス(2024)では訳しあぐねていた場所の解決提案や最終段階の全体チェックを担当し、ビースタ(2024)では共訳者にもたれかかりつつ、言い出しっぺがすべきことをやりました。

この記事では、そこに書かれなかった、あるいは書かなかったことについて、オザケンなら「ぼくらが翻訳の旅に出る理由」と歌いそうな話をしようと思います。下世話な言い方をすれば宣伝なのですが、手に取ってくださる方にとって何らかの周辺理解の一助となれば、あるいはこれから翻訳の旅に出る方の参考になれば幸いです(といっても極めてパーソナルな回顧で、翻訳論ならもっと優れた方の優れた論考がたくさんあるのですけども)。

(1) ドアをノックするのは誰だ

訳書ではあるものの、2冊の刊行を迎えて思うのは、過去に取り組んだことが脈々とつながってここに至っているということです。ビースタ(2024)について言えば、ハッティ(2018)と亘理・草薙・寺沢・浦野・工藤・酒井(2021)がなければ、少なくとも私が訳出することはなかったでしょう。

ビースタ(2024)の「訳者あとがき」にも書きましたが、訳出の直接のキッカケとして、『英語教育のエビデンス』(EBEE)を高く評価してくれていた神吉さんが、日本語教育(研究)の文脈に同書を紹介してくれた上で、「実践と研究の関係を考えてもらう上で他に何か良い文献はないか」と求めていたことがあります。

つまり、EBEEが神吉さんの目に留まっていなければ私とのやり取りは発生しなかったかもしれず、EBEEをまとめるに至った研究を他の5人の著者としていなければ、そしてそれと並行して、英語教育の目的論を考えるためにビースタの一連の著作を渉猟する中で原著のEducational research: An unorthodox introduction (Bloomsbury)を私が手に取っていなければ、この企画は実現していませんでした。EBEEをお読みいただいた方は分かると思いますが、「科学的な効果」を安易に語る風潮に釘を刺して、「意思決定のアプローチへ!」と提言したんだから、「じゃあ『よい教育研究』とはどういうものなのか」という考察に向かうのは自然なことですよね。考えるべきことは無数にありますが、その一つとして、ビースタの教育哲学的思索にそのヒントを求めたというわけです。そしてそれは、極めて適切で、極めて時宜に適った選択だったと自負しています。

10年前に翻訳を支持する記事を書いていたぐらいで、私は若い頃から翻訳で育ち、翻訳びいきでした。ただ、私に翻訳の厳しさと訳出・刊行する意義を実際に教えてくれたのは、ハッティ(2018)の監訳者・山森光陽先生です。意義については「監訳者解説」を読んでもらうほうが早いのですが、ともあれ私は、この翻訳に関わらせていただく中で非常に多くのことを学びました。ハッティ(2018)の経験がなければ、自分の仕事の選択肢に翻訳はなかったかもしれません。

一方で、山森先生ほどの職人気質の仕事ぶりは、私なんかにとても真似できるものとは思えませんでした。ただ、4人チームであれば一貫性を保てるのではないかと考えたのと、北烏山編集室の津田正さんの協力を得ることで「職人気質の仕事」はカバーできると思いました。津田さんとは以前から、ビースタの著作も含め、(英語)教育分野の訳書のカタさについてやり取りをしていたので、そこに挑戦を挑む機会があればやってみたいという話をしていました(ついでに言えば、EBEEも研究社在籍時の津田さんとした仕事です)。

私が携わったプロセスだけを切り取っても、サマラス(2024)の方が先に動き出しました。武田先生から声をかけていただいたのが2021年5月頃で、その時は「私が横からしゃしゃり出てきた感じになると、それ以前から取り組まれてきた先生方の気分は良くないのでは」と思って引き受けるのを躊躇したのですが、そこにはハッティ(2018)=山森先生の水準の高さがよぎったということもありました。ただ、2019年6月に開催された『J. ロックランに学ぶ教師教育とセルフスタディ』出版記念シンポジウム「教師教育とセルフスタディ」(武蔵大学)には(同書を読むモチベーションが欲しくて)参加していましたし、幸いなことにプロジェクトチームには旧知の渡辺貴裕さんらもいて、「いいものを作りたい」と私を受け入れてくださったみなさんのために少しでも貢献できればと考え、加えてもらうことにしました。武田先生との関係はそもそも、ビースタ(2024)の共訳者・川村さんと参加した教師教育学会で声をかけていただいたことに遡ります。

要するに、”connecting the dots”というやつです。

(2) 大人になれば

ビースタ(2024)の翻訳プロジェクトを始動する際、私には2つの願いないしは目標がありました。1つは、神吉さん・南浦さんに持ちかけて「やりましょう」となった時点で叶った願いですが、日本語教育学の専門家とコラボすることです。

以前『実践共同体の学習』の読書会をしていた際にブローカリング(brokering)の議論を面白いと思っていました。小中高の先生方や教育委員会の先生がたとの仕事にある面で当てはまるところがあったからです。一方、研究者同士の仕事の場合、私は英語教育学と教育方法学を専門としており、普段から境界をまたいで活動しているとも言えるのですが、それぞれで会う人はわりと固定的で、両者が混じり合うということがなかなかない。教育方法学の人たちと話す際の英語教育に関連する議論は私が代表し、外国語教育・英語教育の人たちと話す際には教育(方法)学の視点を足すのが私の役目という具合に、私自身が2つのチャンネルを適宜使い分けている感じでした。

私は、学校教育の範囲内で、英語教育というよりは外国語教育、もっと言えば言語教育という視点でものを考えたい教育学者で、日本語教育関連の文献を読んだり、寺沢さん主催の読書会(言語教育政策論文を読む会)などを通じて日本語教育について研究する方々と絡んだりする機会はあったのですが、一緒にお仕事をするという機会がなかなかありませんでした。本当に良いタイミングで神吉さんと南浦さん(の議論)に出会えました。教育分野の訳書に一石を投じたいからといって、川村さんやEBEEのメンバーといった英語教育関係者とだけ集まって訳に取り組んでいたら、これほど楽しい仕事にはならなかったのではないかと思います。全員忙しい中で定期的に夜の会議を開いて検討を重ねられたのは、メンバーの人柄と、原著の適度な歯応えによるところが大きいと思います。

もう一つの願いは、川村さんに価値ある業績を提供することでした。川村さんは静岡大学での私のゼミ出身で、かつての指導教員の権力行使となることに怯えつつ、お誘いしたメンバーです。川村さんは、いわゆるもっと「難関」の大学に行けたであろう学力を持ちながら、ジュビロ磐田を応援したいが故に静岡大学に来た(良い意味で)変態であり、私のところを離れバーミンガム大学大学院でMAを取得した俊英です。私がそんなことを気にせずとも、いま北陸大学で躍動しているように今後どんどん業績を重ね活躍されるであろうことは全く疑わないし、私と出会わない並行宇宙でも同じ道を選んでいる気もするのですが、うっかり私なんかに出会ってしまったばかりにこの道に踏み込むことになった可能性を考えると、川村さんはかえって迷惑に思うかもしれませんが、一抹の責任を感じざるを得ません。

そんなかつての指導教員が「贈与」したかったのは、形式的な業績(の数)などではなく、実質的な経験としてのそれでした。つまり神吉さんや南浦さん、津田さんといったホンモノたちとの出会いや協働です。マッキーの場合2つの願いは1つしか叶わないので、それがどう響いたかは川村さんに聞いてみないとわからないのですが、勝手ながら私は大いに成功したと思っています。少なくとも私と川村さんが2人で訳すのと比べたら川村さんの今後にとって何億倍もmeaningfulで、私にとってそうであるのと同様、川村さんにとってもマイルストーンとなる業績となったのではないかと思います。

実際のところ(最終的には全員で検討を重ねたので仕上がりは揃っているにせよ)最初の下訳が最もうまかったのは川村さんで、津田さんへの甘え丸出しで一番ひどかったのが私だったので偉そうなことを言う資格は何もないのですが、これは、かつて三浦孝先生が『高校英語授業を知的にしたい』やそれに結実する前身のプロジェクトで、江利川春雄先生が『協同学習を取り入れた英語授業のすすめ』で、大津由紀雄先生が『学習英文法を見直したい』で私にくれたのと同じ贈り物だと言えます。アンソロジーの論文の寄稿よりも(全体の編集に関わる限り)時間を要し、協働のプロセスも多いので、よりじわじわと長期間の「贈与」が実現できるという点で、翻訳という形は(そう何度もできることではなく、もしかしたらすべきでもないかもしれないが)悪くなかったと思っています。

さらに言えば、『学習英文法を見直したい』で私は、「幸福な原体験」として最初の編集者・津田さんに出会ったのでした。同じように川村さんに津田さんとの出会いを提供できたことで、今後、他の様々な編集者と出会った際に川村さんをガッカリもさせるでしょうが、「インターステラー」としての私の役目は完了したといってもいいでしょう。

(3) 翻訳はブギーバック

今のが要するに”follow your heart”という話だとしたら、最後は”stay hungry, stay foolish”で締めなければならないのですが、残念ながら(?)そうではありません。

プロジェクトに加わることになって、サマラス(2024)の原著Self-study teacher research (SAGE)を読みながら私が強く感じたのは、「これは教師のセルフスタディについての文献だけれども、教育分野の卒論指導にもかなり役立つ」ということでした。値段がもう少し安ければ、(リサーチメソッドについて解説する時期の)ゼミのテキストにしたかもしれません。

それは、私が学生・院生へのリサーチメソッド指導(もっと言えばメソドロジーに対する意識昂揚)を常に意識しており、サマラス(2024)に著者自身の学生へのセルフスタディ指導経験例が豊富に引かれていることが響き合うからでしょう。しかし私はそういうことを期待してプロジェクトに加わったわけではないし、それを予期して読み進めたわけでもありません。

ビースタ(2024)の第5章を訳しながら感じたのは、「自分が院生の頃に本書があれば、自分たちの学問分野の出自や置かれた位置についての理解が深まり、その後、教員養成系教育学部に勤めた際にカルチャーの違いを理解しやすくなったのではないか」ということでした。全体を通じて自分がまだまだデューイの思想を理解できていなかったことも理解しました。さらに訳者4人ともが、翻訳を通じてラトゥールへの興味を深め、文献を借りたり購入したりしました。いずれも、最初から予期していたことではありません。

要するに翻訳という長い旅を経て得られるものは、単に訳書を仕上げるということ以上のものであって、私はこの2冊の翻訳を通じて、原著の踊りに対する「踊り返し」を予想以上に楽しんだということです。ビースタ(2024)については4人が可能な限り訳注を施しましたので、その「踊り返し」をご笑覧ください。

サマラス(2024)については6月8日に出版記念イベントが企画されています。武田先生の紹介記事もぜひお読みください。

両書について、皆さんからの感想を伺えるのを楽しみにしています。

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