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最近別のところでちらほら書いてた話。どの分野もそうなりつつあるのだろうが,英語教育研究は特に「英語で読んで,英語で書くのが当たり前」と言われがちである。普通に考えれば書くほうは読んでほしい読者次第だし,読むほうも目的次第だと思うのだが,研究者となれば当該分野の動向をフォローするためにもそうならざるを得ない。しかし,学部生・院生から見るとどうだろう?(学習・指導の過程における「翻訳」の効果といった話ではないので,あしからず)

今日,観ようと思っていた『ハンナ・アレント』は逃してしまったのだが,『人間の条件』でも読みかえそうかと本棚を見遣れば,ちくま学芸文庫版をすぐ手に取ることができる(『イエルサレムのアイヒマン』はさすがにない)。さらに視線を流していくと,『理論社会学のカテゴリー』,『小論理学』,『イギリスにおける労働者階級の状態』,『ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説』と院生時代に親しんだ(フリをして大人になれた気がした)岩波文庫たちが並ぶ。ドイツ語でしか読めないとしたら,私がこれらの文献に触れることは一切なかっただろう。

翻訳は訳者によるひとつの「解釈」だから,確かにそれで分かった気になるのは危険だ。ヴィゴツキー読みのヴィゴツキー知らずという揶揄も昔耳にした(ロシア語に取り組む人たちも目にした)。しかし,例えばマルエンについては,大月書店の全集や筑摩書房版など複数の訳を参照しながら読書会をしていたし,それが私に与えてくれたものは計り知れない。

言語学も同様で,チョムスキーの翻訳や(それも難解なのでさらに解説として)ラドフォードの翻訳にお世話になった人は少なくないだろう。そうした経験から私は,仮に当該分野の研究者たちは原著をずんずん読んで行けるとしても,学部生・院生,あるいは周辺領域の入口的文献として,専門書を日本語に訳して出版しておく意義は大いにあると言いたい(そもそもユールのThe study of languageの翻訳『現代言語学20章』がなければ,私はこの道に進まなかったかもしれない)。翻訳でもいいから原典に触れたい,触れてもらいたいということもある。裾野は広いほうが良いではありませんか。

昨今は特に,出版社の営業的に難しいのかとは思う。が,そこを何とか,Routledgeが最近出してるintroductionシリーズや,PearsonのTeaching and Researchingシリーズを片っ端から翻訳していくなんてプロジェクトの英断を心から願って止まない(お仕事ください)。あるいは,関係者は今さらと思われるかもしれないが,

も翻訳しておいて損はしない。最新のところばかりをフォローする前に,Gass and Selinker (2008)ぐらいの水準で,諸概念や過去の重要な知見をマップの上で整理し,理解しておくことが大事だと思う。日本語でももちろん,例えば第二言語習得研究だと,

などの良書はあるにはあるのだが。

他方,語用論における田中(2006)のように,(日本語での必要な解説や演習問題と併せて)短くても原典に当たらせるというやり方もある。学生にとってもハードルがずいぶん越えやすくなる。だが,こういう本を書くには相当の力量が要る。

翻訳を礼讃したいわけではない。「たくさん読めばいいというものではなく,自分の頭で考えることが重要だ」と言う向きもあろう。しかし,考えるためには材料や手段が必要なわけで,ただただ考えろマッチョは無責任(ブルース・リーも怒るだろう)。他方で,ひたすら「英語で読めなきゃ話にならない」という英語マッチョand/or原著マッチョも重苦しい。「誰かのまとめを鵜呑みにせず,適宜原典に当たって,自分の頭で考えること」が重要なのだとすれば,翻訳(願わくば良い翻訳)の存在はもっとこの分野でも評価されていいのではないかと思う次第(to be continued…)。