[レビュー043][ゼミ] 相馬『教育的思考のトレーニング』(その2)

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今年度前期のゼミは、基本的にはZoomで実施し、

を講読している。3章ぐらいずつ、毎週お届けする各章に対する私の総括的レビュー第2弾。

第3章 確信をもって?: 開かれた問い

本章では、傍観者から降りる必要性を説いてきたこれまでを踏まえた上で、ブーバーも引いて「他者性」の概念が導入される。とかく教師と児童・生徒の過度に理想化された予定調和的関係が強調されがちな教員養成課程にあって、平田オリザ『わかりあえないことから』やドミニク・チェン『未来をつくる言葉: わかりあえなさをつなぐために』とも重なる、前章に続いてゼミ生と是非とも講読したいと思った部分だ。

一方で相馬は、「しかし、注意しなければならないのは、単純に権威を放棄すれば他者性の承認につながるわけではないということである。自分はリベラリストで学習者の味方であると信じて疑わないタイプの教育者は、若者言葉を使ったり、服装や趣味も(時に過剰に)若ぶりにしたりする。それで、相互に理解し合えていると思っている(のかもしれない)」(p. 74)とピリリ、抑制が効いている。その辺の立ち位置が悩ましい不惑の指導教員を揺さぶりに来ているのかもしれない。

他者性を踏まえた上で、教育という営みの不確実性へと議論は進み、林竹二の「まごまご」論に至る。自分の好み、あるいは得意のスタイルが、計画(シナリオ、しかけ、whatever)重視か、ライブ(即興、偶然、whatever)重視かというのは、ゼミでたびたび議題に登るトピック(デザイナー or アーティスト論)だが、今年も両タイプがバランスよくいて議論は尽きないのであった。そして、圧倒的デザイナータイプの指導教員が、展開も着地点も見えずとも託して泳げるほぼ唯一の場所がゼミなのだ(あとは英語授業を語る会)。

第4章 思いもかけぬ?: 教育の可能性

担当授業の学生の感想を見ていると、教職系の科目で「オオカミに育てられた子ども」の話が相変わらず語られているようだ。『オオカミ少女はいなかった』などが併せて紹介されているのか気にはなるものの、極端なネグレクト事例で保育・教育が剥奪された結果どういうことが起きるのかというのは知っておくべきことではある。

(教員採用試験的知識でもあるわけだし)相馬もそういった話には触れているのだが、一味違うのは、芥川龍之介の『河童』を引いて次のように述べているところだ。「私たちは皆、わけのわからないうちに生まれ落ちた世界に巻き込まれていく。受けてきた教育を疑うことができるのは、世界に巻き込まれたおかげである。そして、教育を疑うことができるのは、すでにかなり教育を受けた後のことである。皮肉なことに、教育を疑えるのは教育のおかげである。この意味で、いかなる人間も、自由な決断として、教育必要性から降りることはできない」(p. 88)。教育可能性に対する教育的悲観主義も教育的楽観主義もこの視座で分析されていく。当事者であり責任者である以上、「教育をしないという選択はない」のだ(p. 97)。

含蓄深いのは、フリットナーの「教育者は教え子に対し常に具体的に教育可能なものとして出会うが、教え子の教育可能性は、その制約の中でのみ現れてくる」(p. 98)という言葉。「学習者のために」と学習者に積極的に関わろうとする教師の言動には、自分でも気づかぬうちに(自分のモノサシで)「思い通りにしたい」、「意にそわせたい」という作為が忍び込みやすい。だから(そのモノサシから外れるかもしれないとしても)信じて委ねること、信じて待つことは容易ではない。良い意味でも悪い意味でも裏切られる可能性を承知の上で、他者の「自分の見極め」に手を貸す。なんて議論をしていて、ゼミ生に対して「後生畏るべし」と思う指導教員であった。

第5章 かわいい子には?: 保護と解放

第5章はデューイのformal/informal educationの議論から始まり、「人間は、ともに社会生活を営むなかで相互に影響を及ぼしあいながら形成されていくのであり、人間生活のいたるところに教育があるといえる。教育はいつでも・どこでも行われている人間社会の基本的な機能といえる」(p. 106)と教育を広く捉えたところから入る。しかし、以降は、学校の成立経緯や歴史的に果たしてきた役割、そして学校知に対して投げかけられ続けてきた批判が続き、教員養成課程のゼミ生たちにとってはなかなか苦しい章だ。だからこそ、今こそ正面から向き合っておくべき重要な議論とも言える。

やはり相馬先生がすごいと思うのは、そうした批判や社会の変化などを直視した上で、その先に「経験は吟味と反省を経なければ有効な知識とはならない。吟味と反省を可能とするのは思考である。現在の社会にあって、そうした思考を組織的に提供する場は、やはり学校である」(p. 122)という議論を用意しているところ。そして、クラブ活動や教科外活動を吟味する中で、前回の議論についての批判的検討の余地も用意してくれている。

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