[レビュー044][ゼミ] 相馬『教育的思考のトレーニング』(その3)

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今年度前期のゼミは、基本的にはZoomで実施し、

を講読している。3章ぐらいずつ、毎週お届けする各章に対する私の総括的レビュー第3弾。

第6章 子どもの目線で?: 教育的関係

第6章は教師と児童・生徒との、あるいは児童・生徒同士の「関係」が取り上げられる。関係志向の伝統と弊害を紹介した上で、相馬は、リースマンの社会的性格分類(伝統指向型・内部指向型・他人指向型)や比較的有名な「ジョハリの窓」などを紹介し、「周囲への配慮に気疲れしているうちに衰えていく能力がある。それは価値判断力である」(pp. 134−135)とズバリ。

「イタリアンがいいかなあ、と思ったりして」(p. 134)といった言い回しは、ゼミ生たちにかなり実感のある話だったようで、議論ではルーレットで決めるなんて話も出た。われわれ「さして食事に関心無い族」(≒胃腸の命令が優先族)の「なんでもいい」とは次元の違うレベルの配慮の世界にちょっとゾッとした(私は他者と一緒の場合「なんでもいい」が、ホッケかカレーかチャーハンか餃子が食べたいという価値判断は常に明確)。などと言いつつ、私も学生時代は、「イタリアンがいいかなあ、と思ったりしなくもないかな、どうする?」とか言っていた気がしたりして。

ノールの言う母性的態度・父性的態度の話を経て、多様な一次的教育関係を経てきた児童・生徒と接する「教師には、日常の教育活動のなかで、自分の感情や価値判断を伝える努力が求められる」(p. 146)。指導教員として、彼女らは、良好な関係における自己開示や価値判断には全く問題ないだろうと思う。むしろ困難な状況、しんどい場面でのそれにおいてこそ真価が試されることになるだろう。相馬先生が、ここで教育的関係の条件として挙げる①脱権威的的態度、②開放的態度、③情熱的態度について考えるために用意した素材は、灰谷健次郎の「チューインガム一つ」の詩とエピソード。impress/expressという言葉に触れつつ、「印象が印象であるためには情熱が必要」(p. 149)とまとめる言葉の重みと熱さにimpressed.

第7章 個性を育む?: 社会化と個性化

第7章は社会化と個性化が焦点。教採的には「自然に帰れ」(自然主義)の『エミール』野郎で片づけられてしまうルソーだが、実は教育を自然の教育・事物の教育・人間の教育に分類し、われわれにはコントロールできない自然[人間の本性]の教育に合わせるため、他の2つをコントロールする必要性を説いていたことがわかる。

個性重視について、特に90年代以降増えた「自分ソング」を概観し、「人間がさまざまな拘束のもとにあるのは事実である。あたかもそうした拘束がないように生きることができるというメッセージは、人生に甘い幻想を与えてしまいかねない」(p. 158)と相馬先生。人間をさまざまに拘束する「鎖」を指摘するものとしてここで引かれているのは、同じルソーの『社会契約論』なのだ。教採のためだけに本書を講読しているわけではないのだけれども、相馬先生には随所でお礼を言いたくなる。

社会化と個性化の相克を考える手がかりとして、前の章から挙げられているのは井上靖の『あすなろ物語』だ。静岡県総合教育センターの通称が「あすなろ」であるという意味でも、ここの議論は重要だ。ゼミでは、翌檜と檜の関係をどう考えるかや、別のメタファーとしての「タケノコ」論などで盛り上がった。「私たちも私たちでしかない。しかし、外的目標をもつとき、目標を持たなくてはなれなかった何かになることが可能になる」(p. 166)。

どちらかと言えば外的目標も明確で切磋琢磨が当然というゼミ生が多いので、部の目標に囚われて閉じた自我で自己完結してしまうという問題はウチのゼミではあまり目立って浮かび上がってこないが、「Mr. Childrenが『名もなき詩』で『自分らしさの檻』と歌ったのは天才的」(p. 166)と評する相馬先生。先生、あるがままに生きたいです(いや、生きているほうか)。教育的思考としては、ここで引かれているデュルケームが提示した「本質的類似性」と「多様性」の概念にも注目しておきたい。前者が見えてくるような社会化の志向と、後者が活かされるような個性化の志向であるかどうかという観点として。

そして、シビレるラストを、少し長いがぜひ引用したい。

 政治の最低限の仕事は、社会に希望の余地を残すことであろう。生涯学習社会の実現が叫ばれているが、それは、いつでも、どこでも、誰でも学べる社会であるだけでは十分ではない。社会の側に、個人や集団の経験や知見から学ぶことのできる柔軟性が必要なのである。教育の条件は民主主義であるというのは、この意味においてとらえられなければならない。
それにもかかわらず、社会的条件の不備や制度の手ごわさを問題にしているばかりでは何も変わらない。たしかに、個人ができることは限られている。何人かで力を合わせても、まだ限られている。しかし、たとえ小さな一歩でも、何かを発言したり行動を起こすことは、環境に何かを加えることによって環境を変えている。このことをミードは、こう述べている。
「人間は自らを特定の環境に適応させるにつれて、以前とは異なる個人になる。しかし、異なった個人になるなかで、彼は自分が生活している共同体に影響を与える。それは、ごく僅かな影響かもしれないが、彼が自らを適応させた限りで、この適応は、彼が反応できる環境の型を変えていき、したがって世界は異なった世界となる。」(『精神・自我・社会』266頁)
こうして教育的態度をとるために必要なのは、「自分が変われば環境も変わる』と知ることだということが理解されよう」(pp. 172–173)。

控え目に言ってもカッコ良すぎる。

第8章 段階的に?: 連続と非連続

第8章は「発達」について。相馬先生は発達の定義の多様性から議論を始め、それが(1) 歴史的・社会的文化を選択的に習得すること(つまり、世界中のあらゆることがらを満遍なく習得することはできないこと)を意味し、(2) 文化の習得をとおして身体的・知的・道徳的・美的に変化する過程であり(何らかの善さへの変化がないと発達したとはみなされない)、(3)不可逆の現象で、(4)行動の分化と統合化である(例えば、歌うとき次第に音程が取れるようになっていったり[行動の分化]、音程を取ることとリズムを取ることを統合できること[統合化]で歌えるようになる)と整理する。これまで「子どもに発達段階に応じて」という言葉を幾度となく耳にし目にしてきたが、それは大抵の場合、個人差に対応できないことへの言い訳、もしくはそれに何とか対応したいのだが…というwish的願望の表明でしかなく、指導案ではほとんど書いておくだけのクリーシェと化している(だから、これまで幾度なく「発達段階に応じて」は禁止、と言ってきた)。(2)や(4)について具体的に考え、一人ひとりの学習者や抽出した児童・生徒についてのその展望や反省を語る方がよっぽど有益だ。そういう始まりなのが良い。そして最後は、北条時頼のエピソードに世阿弥が脚色した「鉢の木」が取り上げられる。「いざ鎌倉」の話。「この話の主人が危機に駆けつけることができたのは、自然に歓待の精神を発揮できる能動的な受動性の故であったと読むことができる」(p. 196)。能動的な受動性!

中盤、レディネスについて、リットが提示した「指導か放任か」という議論が取り上げられる。かつて板倉聖宣が『仮説実験授業のABC』で喝破しているのに出会って以来、これこそが教育(方法学)の根本問題の一つだと考えているが、この観点でルソーやデューイ、ブルーナーやヴィゴツキーの議論を検討すると、その時代背景や理論的展開における、両者の相克をめぐる葛藤が見えてくる。ハヴィガーストの発達課題論などにも言及があるが、どの議論についても、「違うんじゃないか」と「とは言え、一理あるところもあるかもな」を行き来できるゼミ生の批判的読解力と柔軟性に感心する。発達段階論について、「そうした論理の前提となっているのは、発達というのは昨日より今日、先月よりも今月、去年より今年と、連続的に進むのだという思いこみである。人間の発達には段階的に進む面もある。しかし、それが人間の変容の全体なのではない」(p. 188)。

最後に「危機の教育力」という議論が展開される。今がまさにそれが問われている時だろう。相馬先生は、ボルノーの次の言葉を引用し、第6章で取り上げた灰谷健次郎の「チューインガム一つ」のその後に触れる。危機に教育力があるとしても、「危機はいずれも、あくまで運命である。教育者はこれを招きよせることも、支配することもできない。かれはただ、かかる出来事が運命として人の身にふりかかるとき、それに助力者として関与し、危機の意味をはっきりと捉え最後までそれに耐えぬくことを手助けしようとすることはできる」(ボルノー(峰島旭雄(訳))(1966).『実存哲学と教育学』理想社, pp. 55–57)。そして一方で「危機に対する教育者の過剰な思い入れは禁物であろう。学習者が、直面した事態を危機ととらえる感受性が皆無の状態で、事態に向き合わせるのは徒労に終わることが多い。危機に客観的な基準はない」と相馬先生。われわれは今、子どもたちにとっての「危機」を無視して、大人の一方的な論理で子どもたちを「危機」に向かわせようとしていないと言えるだろうか?

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