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今年度前期のゼミは、基本的にはZoomで実施し、

を講読している。3章ぐらいずつ、毎週お届けする各章に対する私の総括的レビュー第4弾にして最後。

第9章 役にたつ知識?: 生きる力

第9章は教育内容が抱える課題に踏み込む。実は、私はこの章を通じて本書に出会った。

「世界のなかにありながらも、世界からは一定の距離をおいた独自の世界である」(p. 198)家庭や学校について、相馬は「教育的価値」の概念をまず導入し、教養主義と実学主義の検討、そして本書らしい角度からの「生きる力」の検討へと向かう。すぐに役に立つものを求めがちな風潮において、教養主義が「すぐには日常生活に応用できない」ことや「ヴァーバリズムに陥りやすい」という批判は分かりやすいが、実学主義に対しても「そもそも実学主義は、万能であることをめざさない教育」だという指摘が冴える(pp. 200, 202)。

教育的価値とは、「人間形成の観点から重要と見なされる価値体系」を指す(p. 198)。「さて、教育的価値は大人によってあらかじめ選択される限り、その選択は妥当であるべきである。また、教育的価値の提示のあり方は、行き当たりばったりではなく、計画的であるべきである。とくに、学校教育は、近代国家では法によって規定され、事業として営まれるのであり、計画が必要である。学校が教育目的を実現するための計画が教育課程(カリキュラム)であるが、教育課程は大きくは二つの軸から構成される。ひとつは、さまざまな文化的な価値から選択された教育的価値の内容上の区分である。これをスコープという。いまひとつは、教育内容を配列し、時間に配当する学習段階の区分である。これをシークェンスという」(pp. 198−199)。教育方法学ではよく知られた区分だが、今の状況は、大人たちがこの「計画」、特に形式的なシークェンスに縛られ、逆に教育的価値を損なう実態をあちこちで生んでいるようにも見える。スコープの吟味が問われている。

次いで、「生きる力」の検討に際して相馬は、そもそも「生きる」とはどういうことなのかを考える。そのために取り上げるのがチェコの哲学者パトチカの議論。パトチカは、人間存在を(1)世界への根づき、(2)自己拡大、(3)超越の3つの相互連関的な運動として捉えた。ゼミでは(2)に関する議論が盛り上がったが、学校が休校となった期間、そしていま再開した学校で過ごす子どもたちにとって揺らがされているのは(1)であり、最もケアが必要だと私や多くの人が訴えていることと重なる部分だろう。パトチカは、根づきのためには無償の愛が求められ、(a)学習者の感情や欲求を素直に表出できるように配慮すること、(b)子どもをとりまく世界への親近感を育むこと、(c)世界に働きかける態度を育むように配慮することが課題となると指摘したという。ここは贈与論の種まきであると同時に、教育者の意味づけの重要性の話にもつながっている。

ここでの自己拡大とは、「知識が技術を身につけて外界に働きかけ、何かを我がものとすること」である(p. 209)。ゼミでは、小学校低学年児童の「自己拡大」に教師がどの程度介入すべきかという事例に基づく議論や、いわゆる「詰め込み教育」に欠けているのが「アウトプット」だとして、次のようにあることから、インプットとアウトプットのバランスが取れた授業とはどのようなものかの議論が展開された(相馬は、第二言語習得研究や英語教育の議論におけるそれより広い意味で使っているのではあるが)。「現在の学校教育では、学習したことをアウトプット(表現)する機会が依然として十分ではない。学習者が一度アウトプットすれば、まともな教育者はそのシグナルに反応できる。それらの反応は、新たな知識や技術のインプットとなる。学習から自己拡大の実感を得られるようにするためには、教育的関係におけるコミュニケーションの質量ともの拡大が必要だろう」(p. 210)。「学習者が一度アウトプットすれば、まともな教育者はそのシグナルに反応できる」と胸を張れるかどうか心許ない今の状況に相馬先生の言葉が刺さる。

私自身は松尾芭蕉の夏炉冬扇のエピソードのくだりで本書と出会ったが、「何の役に立つんですか」という問いに効用で答えようとすることに対する相馬先生の次の指摘にはゼミ生たちもハッとしたようだ。「しかし、このとき、人の好い教師は、無意識のうちに学習と消費を混同した児童のシェマに同調しているのである。児童が『何の役に立つんですか』と訊いたとき、そこには『役に立つのなら学ぶ』、言い換えれば、『役に立たないのなら学ばない』ということが含意されている。そして、教師が学ぶことの有用性を説得するとき、教師は『役に立つのだからやりなさい』と言っているが、そこには『役に立たないことはしなくていい』ということが含意されている。『役に立つ知識が大事』というシェマに陥っているのは学習者ばかりではない」(p. 221)。p. 223に挙げられている英語の検定試験のエピソードを英語教育関係者は一笑に付すのか、それとも…。ともあれ私は、ハーバーマスの行為論に基づく極めて抽象的な問いかけに対しても、あれこれ議論ができるまでに至ったゼミ生に再度感心しきりであった。

第10章 学びはまねび?: 創造としての再生

第10章は、教育の冒険的性格に迫る。入れ子構造のように世界の中のもう一つの世界として再構成される教育には、メインの世界の縮小・要約的な「サブ」の扱いを受け、教育内容からオリジナルの魅力が失われるという本質的困難がある。さらに、前章末で触れたハーバーマスの行為論で言う客観性と理解志向を重視すると、非効率性と没個性化というリスクを教育は抱えている。公立学校が「どの学校でも、どの教師でも、あまり違いのない授業になってしまう」「ゆえに、『ここでしか聴けない』という魅力に乏しくなる」ことをどう考えるか(p. 229)。

一方で、教育的行為の創造性が再点検される。そのために教師の主観性の快復が必要であるとしても、「個々の教師に無条件に教育する権利を認めればよいかというと、教材の選択から順序立てまでに責任を持つのは困難だ。かりに一人の教師が超人的な努力で成し遂げても、他の教師と効果的に連携をとるのは不可能だ。現実的に教師に可能な主観性の発揮とは、授業の創造にある。授業を魅力あるものにするためには、深い教材研究によって教育研究の意義をとらえることが必要である。遠山の表現でいえば、教師自体が教育内容を羅列的な知識の堆積ととらえているようでは魅力ある授業は困難だ。教師は、教育内容を広大な展望を与えるような原理に沿って教えなければならない」(p. 230)。

これだけでも満腹になるのに、相馬先生はここで世阿弥の『風姿花伝』を引く。「工夫あらん為手ならば、また目利かずの眼にも面白しと見るやうに能をすべし」。まだまだ未熟な自分を恥じる。もちろん、授業と演劇の違いの考察も欠かさない。授業では児童生徒が受動的な観客となることは望まれないし、日常的な出来事として、「ひとつの授業で与えられた印象が次の学習につながることが必要である」(p. 233)。次いで、そうした授業を成立させるための要件の考察のためにヘルバルトが取り上げられ、教育的タクトの議論へと進む。

「ただし、多面的興味の形成は容易ではない。彼〔=ヘルバルト〕は、『豊富な対象及び仕事』と言っているが、与えれば与えるほどよいとはいえない。単に与えるだけでは、児童生徒はオーバーフローを起こしてしまう。そこで、教師が『適切に提出する』ことが重要になる。具体的には、児童生徒がすでに蓄積してきた経験と教育内容を関連づけ、知識や技術を役立てる視点を提示するのである。こうした視点は、教科書には盛り込むことはできない。ここに教師の出番がある」(p. 236)。完全に今の状況を見通したような、今必要な話でしょ、これ。

最後に、小4の児童と豚のPちゃんを育てた黒田恭史の実践を紹介し、挫折の教育力とリアリティーへの接近が語られる。冒頭の本質的困難から、授業は本質的につまらないものだから辛抱して聴くべきと考えたり、座学に意味はないから社会のなかで学ぼうと考えたりする極端に対し、相馬は次のように喝破する。「いずれの極端にも問題があるのは明らかだ。その問題とは、教育におけるリアリティーが見据えられていないということだ。前者は、教育という世界にリアリティーはないと最初から断然してしまっている。後者は、学問の研究や芸術の創作、そして人々の労働というリアリティーへの劣等感から、教育という世界を否定してしまっている。教育には、教育という世界に特有のリアリティーがあるのだ。リアリティーとは、事実や実体とともに、迫真性を意味する。教育的なリアリティーとは、この迫真性にほかならない。事実や実態に迫っていく探求的な運動が、教育という世界におけるリアリティーなのである」(p. 247)。ゼミでの議論も、この迫真性が「冒険的性格」を持つのはなぜかという点で盛り上がった。

エピローグ オーバーワークはイヤ?: 贈与としての教育

冒頭で、孔子の「学びて時に之を習ふ。亦説ばしからずや。 朋有り、遠方より来たる。亦楽しからずや。 人知らずして慍みず、亦君子ならずや」が引用され、読み進むにつれて各文の意味が解き明かされていく。傍観者から降り、当事者・責任者として他者に価値的変化をもたらす存在の自己変容を様々に問うてきた本書において、ゼミ生は教職観・教師観を揺さぶられ見つめてきたのだが、報告者はここで改めて子ども観を問い、児童・生徒の側からこれまでの議論を捉えなおす作業をわれわれに求めた。「子どもが教育者を教育者にする」からである(p. 252)。

教育は根源的には贈与だとするエピローグは、消費的な構えとの対比から、寓話を通じて贈与論を示し、贈与のためには贈与の受領経験の必要性を語る。この辺りは比較的軽いトーン展開しているが、翻っていま、何につけ児童・生徒・学生に主体性が求められ、そこかしこで消極性や「勉強不足」、わがままさが責め立てられる時、そうする資格があるほどわれわれは彼らに与えているのだろうかと考え込んでしまう。こうして今、拙くとも「独り占めにしておくのはもったいない」(p. 261)と思って日々「説ぶ」ことができているのは、かつてわれわれが与えてもらった莫大な「ありがたさ」のおかげだ。「教育は根源的には贈与であるはずだ。しかし、贈与と見なすに足るだけの教育が、私たちの身の回りにどれだけあるだろうか」(p. 262)。

「贈与というのは、現実的には他者に与える『ゆとり』があって可能になる」(p. 263)。この意味で、今教える側にこそ必要なのが「ゆとり」だと思える。万事ゆとりがないのだ。

「ゆとり」がなくても与える自己犠牲的な行為もある。しかし、自己犠牲は美しいように思われるが、犠牲的な贈与には限界がある。それに、自分の分も確保していない(アンダーアチーブメント)状態では、自分は達成課題以上にしているという喜びがない。孔子の言葉で言えば、「説ばしい」というレベルに達していない。それにもかかわらず与え続けていくとなると、せっかくの贈与も次第に偽善になる場合が少なくない。教材研究を怠る教師の授業に新鮮味がないようなものだ。贈与は、自己保存の欲求に基づいて自分のことはしっかりとやり、その上で他人のことも考えて行動することで可能になる。他者のために動くことが可能になるのは、達成課題を上回る努力をするときである。
(中略)
ここで起きているのが脱中心化である。それぞれは自己保存の欲求にしたがって食料を求める限り、自己のうちに中心を有している。しかし、それとともに、「皆のため」というもうひとつの中心を自分たちの外に出したのである。贈与を可能にし、その結果、人々がつながっていくのは、それぞれが自分の内なる中心はそれとして保ちながらも、それを超える中心を自分たちの外に見出すからである。そして、気づくと「しんせつな ともだち」に恵まれている(pp. 263−264)。

講読を通じて本書全体がゼミ生にとってそういう存在の一冊になったのではないかとは思うが、ここは特に、それぞれに経験を重ね折に触れ読み返して欲しいところだ。「人知らずして慍みず」の境地に立てるかどうかはともかく、相手がどう受け取るかはわからないが願いを込めて「贈り続ける」という冒険的性格を持ったこの仕事は真にserveするに値する、と私は思う。できるだけ多くの教師にそれを実感して欲しいと思う。

人間はそれぞれに固有の中心を持ちながら、そこから何かを発している。また、他者の発する何かを受け止めている。ここから知られるのは、脱中心化とは自分が輝くことだということである。それが自分の中の中心を外に出していくということである。言い換えれば、何かを表現するということである。
(中略)
私たちは、表現することで体験をとらえかえすことが可能になる。体験は深刻であればあるほど、強い印象を与え、深い内省を強いる。教育者の責任を放棄しない限り、内省から逃げることはできない。これは、傍観者的な観察というスタイルをとっている間は、決して得られない感覚だろう(pp. 265, 273)。

本書の講読を通じて、そういう感覚を、あるいはその端緒を共有し互いに強く刻む時間を紡げたことをゼミ生=私を教育者にする者たちに深く感謝したい。(了)