[本040] 河出書房新社(編) 『わたしの外国語漂流記』

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学生や先生に薦めるなら、今のところ今年ベスト。

ここ数ヶ月の範囲で先に読む本の候補は無限にまだまだいっぱいあるのだが、休憩がてらめくったら、手が止まらず一気に読んでしまった。読み終わるのがもったいなくて、途中で一気に読み進めるのを迷ったぐらいだが、それでも一気に読んでしまった。

授業で紹介しようと思った時に一人目の丸山ゴンザレスさんのパンチが強過ぎるが、英語について最初に登場するのが丸山ゴンザレスさんだというのが本書の言語(使用・学習)観を象徴していてとても良い。

よく、海外取材をしている人が現地の人と文学的な修飾語句満載のやりとりをしている文章を見ることがあるが、少なくともスラム街の住人や、非英語圏の人々が、そんな文学的な発言ができるとは思えない。会話とは相手があって成立するものなので、こちらが英語ができればいいというものでもないのだ(p. 13。下線は引用者)。

前半の9人目あたりまでがとにかく圧巻で、プナン語、カンボジア語、アムハラ語、古典ギリシャ語、アカン語の話は、英語を教える人・学ぶ人にもぜひ読んで欲しい。私は言語マニアではないので、それらの言語のことを絶対に知ってほしいというわけではなく、こうした言語と格闘した人たちの経験や言語観が、多くの人の英語(学習・指導)に対する見方考え方を揺さぶるに違いない、という期待から。2箇所だけ引用する。

こんなふうにして、言語とは、自分で独り合点するものというよりは、もうこの世にいない人たちも含めたたくさんの他人たちとの共有物なのだということに思い至ったのであった(p. 63)。

ある土地に暮らしながら言葉を学んでいくとき、言葉は常に声であり、身ぶりであり、やりとりの中にある。それをまるごと学んでいくことは、人びとの声音や身ぶり、やりとりの作法を学ぶことだ。そのとき、「学ぶ」ことはまさに「まねる」ことであり、身体的な行為にほかならない。(中略)とにかくやりとりする、という無謀で野蛮な後者の方法では、「私が理解すること」よりも「腑に落ちること」の方が重要になる。そんなやりとりには、その場の状況、相手との関係性、言葉のリズムや話しだすタイミングなどのすべてが関わっている。それは言語の「学習」というよりも、相手との間に身体的・感覚的なかかわりをつくりだすことだ(pp. 66–67)。

本書を読みながら、出張で訪問した際に”Terima kasih.”と言うと、もの凄い瞬発力と笑顔で”Sama-sama.”と返してくれたインドネシアの人たちの姿を思い出したりもした(あるいは[雑感049] TESOL Summit 2017に参加しての注3)。

本書が「14歳の世渡り術シリーズ」として刊行されていることが嬉しい。ひと昔前、

のシリーズが出たとき、こういう本が自分が高校生ぐらいの時にもあればなあ!と喜んだものだが、それを思い出す。なぜこういう本を嬉しく思い喜ぶかと言えば、14歳や10代に向けて語るとき、そこには、その時期をとう通り過ぎた大人たちの未来に向けた優しい願いが感じられるから。そして、そのメッセージは往々にして現在の大人たちに向けられてもいたりする(岩波ジュニア新書は毎度大人にとって最もありがたいもの説)。

この記事を書いている今は、「どう授業を行うか」についての議論があちこちで飛び交っているが、私はどちらかと言えば「いま授業で何を語る(べきな)か」をずっと考えているし、学生たちが何を感じ何を考えていて、私が投げかけるものに対してどう応じるかに想いを馳せている。方法はその時の最善を選ぶというだけの話。

本書と『未来をつくる言葉』は間違いなく参考文献に入る([本037] チェン『未来をつくる言葉』)。

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