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さる2月9、10日、ギリシャはアテネで開催されたTESOL Summit 2017に参加した。そこで感じたこと。

今日投稿するとウソを語っているみたいだが、ウソのような本当の話で、アメリカ大使館派遣の日本代表として、64カ国の180人以上が参加したサミットに信州大学の酒井先生と参加した。参加者の名簿やサミットの詳細、各セッションの動画は上記サイトに全て掲載されているので、詳細はそちらを参照されたい。

酒井先生のお供として、小僧よろしく端っこに座ってウンウン頷いていればいいだろうと思っていたら、それぞれ別のテーブルに配置され、しかも私は2日間、TESOL Presidentの横で、アメリカ、メキシコ、バングラデシュ、カタール、トルコ、モロッコから参加した面々とガチンコで議論しなければならなかった。結果として得難い経験ができて良かったのだが、今までの英語使用経験のなかでも最高難度のタスクのひとつであったと言える。全体として参加者は、各国の英語教育政策にかかわる人や教師教育に対してもかなり影響力のある立場の人が多かったので、その点では私が代表で申し訳なくも思った。

サミットは、Futurology, English in ​Multilingualism, Reimagining English Competence, The Profession as a Change Agentという4つのテーマを2日間の午前午後につめ込み、それぞれ3人ずつがInquiry, Equity, Professionalismという3つの観点(guiding principles)で話題提供をし、各テーブルで1時間議論をして質問やコメントを固め、その後の1時間、話題提供者と質疑応答をするという構成。

例えば、最初のFuturology(未来学)というのは聞き慣れない言葉だが、ここでは、政治・経済だけでなく文化やテクノロジーまで含めた社会全体のマクロな動向の中で、英語や英語教育がどういう役割を果たし得るか、果たすべきかということが話し合われた。もう少し具体的に言えば、様々なソーシャルメディアが否応なしに社会のあちこちに入り込み、人々のコミュニケーションの形を変えている状況に対して英語教育はどう向き合う(べき)かといった話にフォーカスが置かれていた。ただそれは、授業中のスマホ使用を認めるべきか否かといった問題ではなく、「デジタル・ツールを使いこなせなければ今後ますます職を得ることもそのコミュニティで行政サービスを受けることも難しくなっていく状況でわれわれ英語教師は…」、「情報にアクセスできるだけで平等がもたらされるわけではない。紛争地域では、テクノロジー(を使いこなせるようにすること)が不平等を是正する手段にもなれば、人々を分断する原因にもなり得る」といった、およそ日本の英語教育系学会では耳にすることのないレベルの話。その意味で「そういう風に英語教育を捉え(てい)るのか」と非常に勉強になった。

English in ​Multilingualismについても、社会・政治的な状況で教室でのL1が奪われている(EMI, English as a Medium of Instructionが目標や取り得る選択肢の一つではなく、学習環境や立身出世的要求から現状としてほぼ唯一の手段であるような)国の話を受け、「教室での教師・生徒のL1使用をどう保障するか」という議論が展開されたり。こうした、英語教育の社会生活上の重大性、high-stakesさが圧倒的に異なる国々を前にすると、日本の英語教育の状況は事例としても噛み合わず、異質さが逆に私のなかで際立った(トルコの方とは似たような状況を多少分かち合えたもの)。サミット参加者にはアメリカやイギリスからの参加者も多数いたが、英語母語話者と非母語話者を区別・分断するような空気はなく、話題提供者が「以前、アメリカでは『母語話者求ム』のような求人がありました」と逸話を出しただけでブチ切れられるぐらい、その種の「ネイティブ主義」に対する嫌悪も強かった(日本の大学等の公募の現状を想起されたい。注1)。

上記に関連して印象的だったのは、話題提供者や同じテーブルで議論した人の英語がどれも、とても聞き取りやすかったということだ。聞き取りやすかったと感じたのは私の主観で、私の英語運用能力がそう感じるぐらいになったというだけのことかもしれないが、それぞれが普段、様々なレベルの多様なバックグラウンドを持つ相手に対して英語を教えている、あるいはそういう経験を豊富に持っているということがあるように思う。英語そのものの発音や強勢、抑揚が明瞭というだけでなく、間の取り方や言い回しの選択も聞き手のことをよく考えて話しているのが伝わってきた。その意味で、英語がわかりやすいというよりも、フォーマルな話し言葉の上手な使い手たちが集まっていたと言ってもいいかもしれない。

さらに言えば、他の国際学会と同様、何を言うかが肝心であって誰も私の発音や言い方にダメ出しをしたりなどしなかった(だからと言って発音指導がどうでもいいと言うつもりはない。念のため)が、聞き返される回数もいつも以上に少なく、私の英語を普段以上によく聞き取ってもらえたと思う(もちろん、自分の英語運用能力の不足を実感しもしたけれど)。直接相手に向けたわけではない、つぶやき的な不明瞭な発言もちょくちょく拾ってくれたりして結構驚いた。要するに、お互いに通じやすい話し方を心得た人たちがattentiveに相手の話に耳を傾ける密度の濃い時間に加えてもらい、求められるタスクの高度さを除けば、不安少なく英語使用できる滅多にない環境だった(注2)。これが日本では得難いことだと思う。

そうした熱心な参加者にも支えられて、上記のテーマ設定と進め方は、全体として参加者に高い満足度をもたらしたように思う。とりわけすごいと思ったのは、話題提供者のトークや質疑応答と同時進行でRSA Animateのように議論が図示されていったことだ(上記サイトで、各テーマのRecorded SessionsのページにGraphic Recordingとして掲載されている)。ひとえにこれを描き続けたWendiさんの手腕によるものだが(彼女も英語教師で、これはある種の余芸)、このサミットの議論の共有の仕方を象徴しているように思え、全てのセッションが生中継され、こうして今もサイト上で録画映像を視聴できるわけで、その伸び伸びとしたオープンさが示唆的だった。

他の議論の内容や数日だがアテネに滞在して感じたこともたくさんある(注3)が、取り急ぎの参加報告として。

(注1) この辺のことは日本では、

の第1章が、多くの人にとって「英語はネイティヴがいちばんよくできる」とか「国際語=英米語」といったイメージ、あるいは話し言葉と書き言葉の違いを解き解すことから始めなければならない段階であることを物語っている。

(注2) 会場がホテルの大広間で、初日はPresidentのいるテーブルということもあって最前列で、スクリーンも話題提供者も見やすく、非常に参加しやすかったのだが、「平等に」ということで2日目は座席変更となり、逆に最後方の、柱で前はろくに見えないテーブルに変更になってしまった。すると話題提供者の話も前日より聞き取りにくくなって集中力も下がってしまい、「ああ、こういうコンディションに左右されるようじゃ私の英語運用能力もまだまだだな」と思っていたら、(Presidentも含めて)テーブルの全員の集中が下がっていて、お互いに「今なんて言ってた?」と確認し合う回数が増えたのが個人的には面白かった。要するに、誰だって後ろの席じゃ集中力が下がりがち問題。

(注3) 全くの余談だが、どこに行くにせよ「一言二言でもなるべくその土地の言葉を」と思っているので、ギリシャ語でちょっと丁寧な(目上の人や知らない人に使う)「こんにちは」は「ヤーサス」(Γειά σας)と言うのだが、これだけ覚えてあちこちで使っていたら、ある店では「完璧なヤーサスだ」と褒められ、帰りの空港のお店では店員さんにギリシャ語でわーっと話しかけられて「ごめんなさい、ヤーサスしか知らないんです」と英語で話したら、「自信たっぷりで、ギリシャにずっといて喋れる人なのかと思ったよ」と言われたのが、ギリシャ語Pre-A1レベルで達成したこと。