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匹夫といえども志は奪うべからず、といいます。誰もが大切にし育てているものを奪っちゃいけないが、事実、決して奪われはしない。キャン・ノット、奪うべからずです。もちろんお互いの生身の身体をもった人間ですから、妥協もするし、世に流されて気に染まぬ生き方もじっさいはする。流されながらしかし、その中でやはり魂は固有の方向を失わずに息づいております。この楽しみだけは奪われないぞというものを、誰もが持っている。魂が育ってゆこうとするその心の動きまでは誰も、集団の暴力も政治の力も、根絶することはできません。そういう力を魂は本来持っている。匹夫のくやしさで、社会の表面に顕れてポジティヴに現世を動かす力にはなりえませんけれども、それだけに、底のところでは怨念のかたまりのように生きつづけ社会の底流として流れつづけていて、時あればどとうとなる。『わが祖国』(スメタナ)の「ブラニーク」みたいなものです。そういう潜勢力を持っております。

だからこそ、一方では支配と管理をいっそう徹底せねばという支配者の神経過敏な思考と行動がでてくる必然性があって、現にいま強まっている。ということをひしひしと思わせられる昨今ですね。それだけに、私としては「楽しい」という感覚を大事にし、「楽しみ」の中身を一人一人が社会のなかで深め広めてゆくことの意義を強調したいのですけれど、そういう大状況の大議論は別にして、当面、この小さな会の運営のことに限っても、とにかく毎回が「ああ楽しかったなあ」という会であれば、会は活発に、−−世話人が一々お世話をしなくても−−自分で、自然に、存続し育ってゆくでしょうね。それに第一、楽しいことはいいことです。

「志は奪うべからず」。どうか、会が楽しい会であるよう、有用かどうかだけでなくて楽しいかどうか、楽しみ方、楽しみの中身が深められているかどうかをもチェックポイントの一つにして、運営していって下さい。

 

会が楽しく育ってゆくかどうか。その鍵は、参加者の一人一人がどの程度聞き上手かどうかにある、と私は考えます。もちろん話し上手になることも大事です。が、一番の鍵は上手に「聴くこと」にある。

むしろ、皆が下手に「話し上手」になって、結果として話し下手の人の口ごもりながらの発言を圧倒するようになることこそ、避けるべき第一のことでしょう。先日、発言を全員に義務づけ順次を公示するという学校の出現が新聞に出ていました。なるほどそういう訓練をすれば皆発言がうまくなり、その効果として全員が「小論文」を上手に書けるようにはなるでしょう。しかし魂はそっぽを向くという結果にならないでしょうか。学校でのご苦労はわかります。私も教員のはしくれですから。が、少なくとも、こういう自由な——さしあたり「進学」というようなことを考えに入れずにすむ自由な人たちが集まって、読書により、いっそう自由な人間になるために本を読もうという——読書会では方向が逆だ。話し上手になるより聴き上手になること。報告をし発言した人が、私の下手な話をよくもこうまで聴きとって下さった、本当はそう思っていてうまく言えなかったんだというように事が運べば、そのような聴き上手に皆がなり、聴き上手を得て皆の考えがそれぞれに伸びてゆけば、万事目的は達する。会運営の要は、他人の言をいかに聴くかにあり、そして、その聴き上手には、本を大事に読むという仕事——大事に取扱って「聴きとる」風習と技術ですね——を深めてゆくことによってなれる、もともと本とはほんらいそう読むべきもの、と私は思うんです(pp. 8–10。強調は引用者による)。

わかる人にはすぐわかる、

からの引用である。名著ひしめく岩波新書黄版の中でもやっぱり名著。今年度のゼミの予定をあれこれ考えていて、久しぶりに再読したら警策をいただいたような心持ち(結局ゼミでは取り上げないので、各自がどこかで手に取ってくれることを期待したい)。30年以上経っても変わらない世を嘆くべきか、30年以上経って内田さんの思索がますます「古典としての読み」を促していると考えるべきか(注1)。

いずれにせよ、年度の終わりにゼミ生それぞれが、「しんどくはあったが、あの時、私は私であった。私の魂は、さまたげを受けずに、あるいはむしろ、受けたさまたげを排除しながら、すくすくと伸び育っていた」と思えるよう、「楽しいということ、楽しさの感覚をとぎすまし楽しみの中身を深め」る時間をつむぎたい。

 

(注1) みなまで言いませんけど、「支配者の神経過敏な思考と行動」で色々思い当たったりしますよね。