[本010]『アメリカの教室に入ってみた』(赤木, 2017)

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今年度の予定がようやく片付いてきて、昨日今日あたりから「オレたちの3月はこれからだ!」という時間を迎えることができている。新年度が来て余裕がなくなる前に、もっと早くに紹介しようと思っていた一冊を。

教員養成課程で必ず一度は触れておきたい文献だが、担当授業では詳しく扱う余地がなく、同僚が教職系の授業で取り上げてくれることを願うばかりだ。私自身は(当然というかやっぱりというか)英語教育に引きつけて読んだ。

本の紹介にある通り、発達心理学・特別支援教育学を専門とする著者が、シラキュース大学での在外研究期間中の体験を綴った本書。コンパクトながら、第三者として訪問・見学した貧困地区の学校の様子から、当事者として学校を選びご自身の娘さんを通わせた経験までが語られる。と言っても、あちこちを列挙するだけのルポではない。平易な文章の中に、地に足のついた著者の視点がまっすぐ示されている。

例えば、問題行動を直ちに排除することで教室の秩序を保とうとするやり方について。

「問題行動がおさまればどちらでもいいじゃん」という声があるかもしれません。確かに「落ち着く」「じっとする」といった結果は、同じかもしれません。しかし、プロセスが決定的に違います。だとすれば、子どもの中に残るものも違います。私としては、他者との関係性を豊かにしていく中で育つ自己コントロールに、教育の意味があるように感じています(p. 34)。

翻って、英語教育の現状に「他者との関係性を豊かにしていく中で育つ自己コントロール」をどれくらい見いだせるか考えた。「正しく使えればいいじゃん」、「通じればいいじゃん」、「目的を達成すればいいじゃん」という声があがる時、そもそも「他者との関係性」は顧みられているか。一方的な言動を「コミュニケーション」と呼んで満足していないか。以下の「自己決定」を「自己表現」や「コミュニケーション活動」に置き換えて考えてみたい。

自分だけで決められる自己決定は、そうたいしたものではないとも思います。本来、自己決定とは、他者との関係、集団との関係、社会との関係、それぞれ相手の声を意識的・無意識的に聞きながら、その中で葛藤し、おりあいをつけつつ、自分で決めていく類のものです(pp. 86−87)。

さらに、そこに関わる教師の役割について。

大人が、子どもの言葉にならない言葉を一緒に探していく過程で、子どもが言葉をわがものにできるようになるのではないかと思います(p. 43)。

というプロセスをどれくらい授業内、あるいは授業と授業の間に担保できているか。附属中学校の先生がたがここ数年「言いたかったけど言えなかったこと」の収集とフィードバックに意を砕いてくれているが、通底する考え方だと言える。

(中略)先生が一緒になって遊び、これまで子どもたちが考えたことのない、感じたことのない心地よい、快の感情を耕していく遊びがもっともっと必要です(p. 50)。

というのは、教科化が迫り「遊び」の余地がいっそう奪われそうな小学校の先生がたに向けたい言葉だが、中高の英語授業にも求めたい。単純にことばを楽しむという意味でも、遊びを広く捉えて、先生自身が英語使用者として、もっともっと英語や英語文化の世界を広げてあげてほしいという意味においても。

本書の、日米でのいわゆる「インクルーシブ(教育)」の前提の違いの整理はすこぶる明快かつ説得的で、特に一読に値する。また、直接引用はしないが、インクルーシブ教育や異年齢教育を無条件に「よきもの」「正しいもの」としない視点へと読者を連れて行ってくれる記述も素晴らしい(注1)。

 子ども目線で見た場合、そして、アメリカの子どもたちに学べば、「異質」なものを「何だか素敵」「もっと知りたい」「自分もやってみたい」と楽しめるような環境・雰囲気を創ることがより重要になると感じました。
「多様性」そのものが大事というよりは、「多様性」を楽しむことが大事ですよね。子どもたちから大事な問いをもらいました(p. 172)。

という著者の示唆に触れた時、日本の英語教育は、どれだけ「同じであること」を志向せず、多様性を楽しむ環境・雰囲気を作れているかと考えてみた。

「皆と同じ」教育観を自覚することなしに、教育の改善は見込めません(p. 204)。

と赤木さんは手厳しい。

最後に、娘さんが通い出した私立学校でのエピソード。

翻訳機というのは、「伝えたいけど伝わらない」「相手の気持ちを知りたい」と切実に思って初めて、価値があり、実際に使われるものです。(中略)特別支援教育も同じです。教師や保護者が「よかれ」と思い、先回りして、様々な支援教材を用意してもうまくいくとは限りません。むしろ、子どもたちがその教材を「必要」と思っていなければ、大人が「これはええものなのに、なんで使わへんの」などとなってギクシャクしてしまいます。もしくは、道具に使われてしまう自体にもなりかねません(p. 186)。

(iPadの)「翻訳機」が出てくるから引用するわけではなく、私は、上述の「大人が、子どもの言葉にならない言葉を一緒に探していく過程」と併せて、英語学習の環境づくり、あるいは「ICTの活用」云々に対してのメッセージとして引き取った。

 

(注1)個人的に最も唸ったのは、流動的異年齢教育に対する「正確には自己肯定感が低くならない」(p. 188)という洞察。

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