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圧倒的に良かった。

外国語教育の目的論を編み直そうとしている今出会えて良かった。

ゲーム体験など、そのまま自分のことかと思うぐらいの同世代の言葉ということもあるが、読み物として最も印象深いのは、娘さんへの眼差しや娘さんとの間の出来事のくだり(第1章や第8章)。

それ以上に、ベイトソンの「関係性」の思考の紹介や、水谷信子さんやメイナード泉子さんの研究に言及があったりして(第8章)、自分とは接点の全然なさそうな分野の著者が意外と近いことが興味深かった(水谷さんには例えば「[本006]『感じのよい英語 感じのよい日本語』」で言及した)。

ことばの教育に関わって、3箇所だけ引用する。

わたしたちは、互いのクオリアの最大公約数となる言葉に想いを託しながら、かろうじて会話を行なっている(p. 24)。

ある瞬間に、「自分だけのパターン」がはじめて意識の上に浮かび上がる。だから、ロールモデルを明確に持っている初学者ほど、当初は稚拙であっても、模倣を繰り返すなかで、対象と自らの差異をあぶり出す。そこから固有のパターンを獲得し、世界を表象するための「言語」を構築していく。ここには、外部から「読み取ること」と、自ら「書き出すこと」の興味深いシンクロニシティ[共時性]が見て取れる。これは、デザインやアートなどの視覚表現に限定されることではなく、文章の読み書きや、その他一切の表現形式にも通じて言える。

自然言語の領域では、母国語や外国語を習得することで、世界を独自の視点で記述し、他者に伝える能力を獲得する。この学習行為によって、自らが認識し、表現できる環世界の領土が押し拡げられたり変形したりする。そして、世界を記述するための「言語」を自ら創作することによっても同様に、環世界は拡張されると言える(p. 68)。

結局のところ、世界を「わかりあえるもの」と「わかりあえないもの」で分けようとするところに無理が生じるのだ。そもそも、コミュニケーションとは、わかりあうためのものではなく、わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け容れるための技法である(p. 197)。

著者の言う「言語」の射程は、日本語やフランス語などの個別言語に限らないのだが、だからこそ、こういう言語(学習)観を持っている外国語(としての英語)教師、こういうことを学習者が感じられるような授業を作れる外国語(としての英語)教師がもっと増えると良いなと思う。わかりきったことを、わかりあったフリのためにやり取りして、それを「コミュニケーション(活動)」と呼ぶ英語教育(をコミュニカティブと勘違いするの)はもう止めにしたい。