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過日の全国英語教育学会(島根大学)で購入し、編者の一人からもゼミ生用献本をいただいた、

を読了。どちらかと言えば「これまでの英語教育」の世代に読んでもらって関係者に猛省してもらいたいが、ゼミ生にとっては、15年前に学生・院生の頃のわれわれが

で侃侃諤諤していたような一冊になればいいなと思う。

記事タイトルにはレビューと冠しているものの、各章の概要の紹介はしない。ぜひ手にとって通読されたい。ここでは、前後の文脈抜きに、いくつか個人的なハイライトに言及する。それゆえ、本書を読み終わってから読んでもらったほうがいいかもしれない。

寺沢さんの章では、「(中略)教育というのは基本的に何かやれば何かしらの好影響が見られるものなのだからです。ポイントは、その好影響は、他のものを差し置いてでも優先すべきものかどうかです」(p. 9)という指摘をまず日本全国津々浦々隅々まで届けたい。このことの無自覚ないしは無視が、苅谷剛彦さんが(例えば苅谷・増田『欲ばり過ぎるニッポンの教育』などで)指摘してきた、ホワイトリストばかりがいたずらに肥大する事態を招いている。藤原さんがコラムで鋭く指摘している、コア・カリ試案記載の各項目を学ぶことが「役に立つ」と思うかについての「結論ありきの予定調和型の調査」(p. 98)も同一線上にある話と言える。

寺沢さんの言う通り、小学校英語を労働問題として批判する声は弱い。「政策的に考えれば、根本的に主従が逆転している話のように思います。予算がつく見込みもないのなら、『研修大事』『サポート大事』という理念は単なるスローガンで終わってしまうからです。(中略)要は、100時間増程度のメリットで小学校教員に大きな負担を強いる大改革を正当化しているわけです。優先順位の付け方が根本的に間違っていると思います」(pp. 21, 29)という指摘は手厳しいが、国や業種が違えば、きちんと措置が講じられない限りストに突入する、という状況に至ってもおかしくないぐらいの無理筋の話だということが伝わるだろうか。当事者たちも含めてぜひともシリアスに伝わってほしい(注1)。

欲を言えば、予算や研修についての構造的な問題はもう少し細かく論じて欲しかった。実態として、予算や研修実施体制の面で、小学校教育現場の有り様を左右しているのは各都道府県教委や市町村教委だからである(文科省からも多少の予算がバラまかれてはいるものの)。文科省の意向は確かに「カスケード」で伝達されているし、ここでの寺沢さんの主旨は「合成の誤謬」の指摘にあるのだが、その構造は実際はもっとややこしい。ALTも自治体ごとの違いが大きく、むしろ人口の少ない市町のほうが、自治体予算で独自に追加雇用して、毎時間同じALTが来る状況を整えていたりする(そこに、藤原さんが指摘する「根強いネイティブ信仰」(p. 73)が絡んでいたりするわけだが)。

全体を通じても、寺沢さんが一時の「国語がダメになる」論は不毛だったと指摘しているものの、学校教育の一環としての英語教育という視点が本書にやや弱いのは残念ではある(その点で、座談会では専科教員の体制上の困難さや、CLILのくだりで他教科との関連に少しだけ触れられており、このパートがあって本当によかった)。問題のいくつかは、英語教育の中に閉じたものとしてではなく、これまでの日本の学校教育行政や、教員養成・採用・研修体制に起因するものとしても捉えるべきだろう(いわゆる「経路依存性」)。例えば藤原さんは、金谷 (2013)を引いて、「第二言語教師の『プロ』の養成には4年は短すぎる」(p. 84)と言うが、それは英語教員に限ったことではない(注2)。現在の教員に求められるスーパーマンぶり(と教員養成課程の入り口や、若者の精神的成熟具合との差)に鑑みれば、どの学校種、どの教科であれ4年は短いのだ。そこで言う「プロ」が「完成品としての教師」を指すのだとしたら、教職の専門性や教師の成長過程が果たしてそういうものなのか、もう一度よく考えてみるべきだろう(『英語教師は楽しい』の拙稿を参照されたい)。

その点で、仲さんの「(中略)その『コミュニケーション能力』をどうしても英語教育で培いたいのであれば、これまでのように『個人の能力』という次元ではなく、『関係性の水準』から測定する道を考える必要があるでしょう。さもなければ、『コミュニケーション能力』は表面的に合理化され、結局のところ、各個人の言語能力、すなわち、従来の『英語力』の育成をしているのとたいして変わらなくなります。なんとなく、『コミュニケーション』らしき教育内容になっているという錯覚だけで終わってしまうでしょう」(p. 121)という指摘に深く頷いた。以前も触れたことがあるが、関係的能力観から英語教育を捉え直す必要はずいぶん前から感じていたことで、「人は最終的に『分かり合う』ことが困難な場合があります。『分かり合えない』可能性をも視野に入れて、『コミュニケーション能力』を考えるべき」(p. 130)という見方も、私が「英語教師になる人のためのブックリスト(私家版)」に平田 オリザ『わかりあえないことから: コミュニケーション能力とは何か』を入れていることと相通ずる。「(中略)『主体的』というもっともらしい文言が、上述のような境遇に置かれた学習者たちを追い込んでしまうのではないかと危惧する」(p. 123)という視点を持った先生に教わることのできる岐阜大の学生は幸せだ。仲さんと飲みに行きたい。

最後に、座談会で嶋内さんが「言語を使える人に対するリスペクトが薄い。だから、東京オリンピックでもボランティアで通訳をやらせようとかいう案がまかり通るんだと思います」(p. 168)と指摘している。その通りだと思う(注3)一方で、ふと、言語(特に英語)がそこそこ使える人の、ことばそのものに対するリスペクトの薄さも問題の一因として小さくないのではないかと思った。畏怖の念というべきか。そういえば、言語教育を通じて、言葉の面白さと同時に怖さに気づくことの重要性を指摘していたのが冒頭の大津・鳥飼 (2002)であった。CLILのくだりについてもSELHiやSSHの検証こそ必要なわけで、さらに踏み込んでこれからの英語教育の話をするためには、この15年間ぐらいに絞ってでもいいから、姉妹編『これまでの英語教育の話をしよう』が必要なのかもしれない。

 

(注1) 座談会で藤原さんが指摘しているように(p. 145)、同じことは小学校教員の側だけでなく教員養成課程の体制の問題にも当てはまることも伝えておきたい。去年2月のコア・カリのシンポジウムでそのこと(例えば現状では80人クラス×3を置くのですら厳しいという状況だが、それでは「発音指導をできるようにする」ことなど及びもつかないわけで、そういうクラスサイズの問題とかはどうするのかということ)を質問した際に「それは各大学で工夫していただいて…」という応答を聞いて、私の心のコアはだいぶ冷え込んだ。

(注2) この段落の話とは関係ありませんが、「(中略)手始めに発音において、1) 単一モデルではなく、複数モデルの提示、また2) 受容モデル(つまり「聞くこと」と「読むこと」)と産出モデル(つまり「話すこと」と「書くこと」)の区分を学習指導要領に明記すべき(後略)」(p. 60)というのは、今後あちこちで学生や先生に伝えたいと思います。

(注3) 前任校で企業見学・訪問をした際に「必要なら通訳を雇えばいい(から大学で英語教育なんてがんばらなくていいよ)」という人にたびたび遭遇したのだが、自分でなんとか意思疎通を図ろうとしない(あるいはしたことがない)でもやっていける境遇からこういう発想・姿勢が出てくるのかなと思う。