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前記事のような読後コメントとも違って、

の第15章の実務的な文献ノート。前記事で紹介した文献を読んだ方にはつながりがそれとなく伝わるかもしれない。

思考とコミュニケーションに対して言語がもつ根源的な重要性を考えれば、異言語と出会った自分が、いくらかでもその言語を習得するなら、その出会いは自分を変えることになる。第5章で取り上げられたCEFRの「複言語主義(plurilingualism)」は、そうした思想を体現しようとする考え方である。1人の個人が母語のほかに複数の言語における能力を身に付けるよう推奨するこの考え方は、「民族中心主義」の克服や「言語の多様性」の尊重といった目的と明確に結び付けられている。当然そこでは、言語は文化と不可分であり、その多様性を理解することは自言語=自文化を相対視できる能力の習得である。

(中略)異言語と出会うことは自分を変える。しかし、”変わる”ことが無前提に賛美されてしまうと、人は変わることがもたらす意味に対して無自覚になりがちである。CEFRで述べられていた、「ある一つの外国語と文化の知識で『母』語や『自』文化とに関わる民族中心主義を必ずしも超越できるわけではなく、むしろ反対の影響を受ける場合がある」との言葉を、警鐘として聞いておきたい。

(中略)変わるのは人だけではない。異言語との出会いによって言語自体もまた変わる。言語接触による言語変化の現象がそれである。

(中略)異言語と出会って行いくらかでも異言語を知るならば、それはその言語を話す他者である相手のことをいくらかでも知ることになる。なぜ異言語を学ぶのかと言われたら、異文化の他者を知りたいからとの答えが最も”普通”のものだろう。

(中略)異言語との出会いがもたらすことの3つ目の相は、異言語とそれを話す他者を知ることで、その反照によって自分自身を知ることになるというものである。これまた当たり前のこととも思われようが、反面、ふだん自分のことはあまり見えていないということを知ることにもなる(pp. 253–255, 258, 261)。