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一言で言えば、全部乗せ。

は、見た目以上にたっぷり濃厚で、まさに石井さんそのものという感じの一冊。

装丁や語り口から、博論をベースにし、その後増補改訂を続けている

などに比べて読みやすそうな印象を持つが、ところがどっこい、どこもかしこも簡単には読み進められない。この感覚は、読者の経験に比例すると思われる。自身の実践や観察した授業、参加した研修とつながる部分が多ければ多いほど、ページを繰る手を止めて考えさせられる部分が多くなるに違いない。

私自身は、それぞれのツボについて、こうも捉え方や説明が一致するものかと感嘆しながら読んだ。学会・研究会等を何度も共にし、酒を酌み交わす先輩であり研究仲間であるが、私は英語教育に特化してきたし、研究授業や授業観察の場で同席する機会はない(唯一の例外は、全体フレームワークを石井さんが監修し、私が英語科の共同研究者を務めた附属浜松中ぐらい)。それにもかかわらず、私が英語の授業を観てこれまで言ってきたことが本書に書かれていたり、随所で根本的に同じところでモノを考えていることが看取できたりするのは、出身研究室は違えど、同時代に同じ釜の飯を食ってきた(それ以上に、似たような文献を読んできた)教育方法学の共通基盤ゆえかなと思う。

ただし、不勉強感覚派の私と違って、石井さんのそれは膨大な知識と授業観察経験に支えられている。構成概念の、先生がたに受け容れられやすそうな言葉選びの巧みさの背後に、これまでの教育学の蓄積がある。本当に勉強になる。

それ故、語り口が柔らかく、読みやすく思えても、何となく分かったつもりになって読み流すべきではない。段落ごとに立ち止まって同僚や仲間と議論をしたほうがいいぐらいの密度である。そして著者を呼ぶ機会があれば、段落一つにつき、1時間以上は余裕で喋ってくれるだろう。例えば、次の段落を読まれたい。

最後に改めて、学びの深さ以前に、教材自体の深さを吟味する必要性を指摘しておきます。「深い学び」というとき、浅く貧弱な教材に対して、思考ツールや込み入ったグループ学習の手法を用いることで、無理やりプロセスを複雑にし考えさせる授業になっていないでしょうか。読み手を試す読み応えのある連続型テキストと格闘させず、非連続型テキストからの情報選択・編集作業に終始していないでしょうか。教材それ自体の文化的価値が高く、内容に深みがあればこそ、その真価をつかむためにはともに知恵を出し会わざるを得ず、協働的な学びや深い学びが要求されるのです(p. 300)。

私は「まさにまさに。英語教育はある意味で逆行しているわー。そこに立ち返る流れをどこで快復できるかなあ」などと思う。読者の大半も「教材自体の深さを吟味する必要性」と言われれば、確かにそうだと思うだろう。しかし「無理やりプロセスを複雑にし考えさせる授業」に思い当たる例があるだろうか。「連続型テキスト」と「非連続型テキスト」の対比の意味はもちろんのこと、「読み手を試す読み応えのある連続型テキスト」が具体的に思い浮かぶだろうか。結論に異論がなく、何となく通り過ぎてしまうと、本書の価値は大きく損なわれてしまう。上記は後半の記述とは言え、第1章から石井節の行間に引っかかり、それについて自らの実践を顧みたり、周囲と議論をしたほうがよい。本書は遅読を求めている。

石井教授学の一つの結実を研究仲間として心から慶び、恵投いただいた感謝の印として、2点ほど批判もしておこう。

1点目は、「5つのツボ」の相互関係について。かつて藤岡 (1976)は、「教授学(または授業研究)の基本的な問題設定の様式」を2つに区別した。一つは、「授業の過程を、この過程を構成するさまざまな要因の複合としてとらえた上で、教授学の目標をそれらの諸要因の相互関係を明らかにすることにおく立場」(p. 15)、もう一つは、「授業の成否をきめる決定的なモメントを教育内容の科学性とそれに基づく教材の具体的展開であるととらえる」立場である(p. 15)。私は後者の立場の研究室で育った。だから、この立場の科学観の時代的制約はあるとしても、その「成果として最終的に得られるものは」「特定の教科の特定の分野の特定のテーマに関する教育内容の展開形式そのものなのである」(p. 15)。

その意味で、第2のツボ「『教材・学習課題(Task)』をデザインする」と第3のツボ「学習の流れと場の構造(Structure)を組織化する」は私の中では不可分のものであり、第3のツボの中で、教育内容が要求する構造化と、集団での教授活動の構造化・組織化が一緒にされていることには違和感がある。

本書は、若い先生に向けた手引き書であり、大学の研究者や指導主事、管理職、研究主任等への指南書であるから、プラクシスとして良き実践を追究する上で、教育内容・教材の構造だけを考えているわけにはいかないのは当然のことではある。しかしそうだとすればなおさら、各ツボ間の関係、例えば上記の2つのツボと第4のツボ「『技とテクノロジー』(Art & Technology)で巧みに働きかける」の関係の具体が問題になるだろう。

第8章でその手立てが論じられるが、満遍なく一連の流れとして全てのツボに触れられている。そこで「日本の伝統的な授業像の発展的継承」が図られている辺りも流石と唸りはするが、実際は、教科や単元によって、そして教師と児童・生徒の関係においても、必要なツボの考慮には凸凹があり、また重み付けも違うのではないか。ここは石井さんとじっくり議論したいところだ。とは言え、私自身が先生がたとしている議論も、結局のところこの5つのツボに集約されるように思うのも事実である。

2点目は、挙げられている事例の問題だ。石井さんと言えど、教育方法学的に得意な教科とそうでもない教科がある(一般の読者は気づかないレベルでの違いかもしれないが)。本書で挙げられている事例の多くは、少なくともわれわれ世代の教育方法学者の間では比較的知られた例であり、入りやすいものを選んでいるなと思うものの、これだけ多様になると、若い先生や学生がどれだけリアリティを持って、授業の展開や児童・生徒の思考の様子をイメージできるか不安になる。

英語教育に特化した者として、やはり英語の事例については指摘せざるを得ない。例えば第7章の表7-2はあくまで「課題に特化したルーブリック」の一例だが、パフォーマンス課題で求めるtask completionとlangage abilitiesの関係のよくわからないものが選ばれている。例えば内容について、「日本文化についての説明や感想を伝える形容詞を選んでいる」と、なぜか「形容詞」という言語要素に評価規準が矮小化されていたり、「伝える相手の人数や状況に応じて目線を振ったり話題に合わせた表情やジェスチャーを取り入れた発表ができる」ことが「発表の積極性」とされている。「話題に合わせた表情やジェスチャー」とは一体何なのか、そしてそれが「発表の積極性」を示していると言える根拠はどこにあるのか。

もちろん、例えば「形容詞」と設定するのは授業での学習内容とつながっているのだろうが、これだけ切り取って英語教育(のルーブリック)とはこういうものだと見なされるとはなはだ具合が悪い。引用元の文献で示されているように、「外国語科を貫く最も包括的な『本質的な問い』」が、「外国語を通して、他者とのよりよいコミュニケーションを図るにはどのようにすればよいのか」(p. 140)にあるとすれば、このパフォーマンス課題が位置づく単元の「自分の紹介したいことを効果的に伝えるにはどうしたらよいか?」の「効果的」とはどういう意味かが問われるべきであるし、「効果的」が(一方向の)情報伝達の効率性といった浅薄な意味合いでないとすれば、このルーブリックの大半が学習者から否定され具体的に肉付けされることが目指されるべきであろう(p. 141)。

言い方はキツいが、こういうしょっぱいパフォーマンス課題の漠たるルーブリックで深まるとされている外国語科の「見方・考え方」の薄っぺらさと日々闘う者としては、事例の選定にはもう少し慎重であって欲しかった、というのが石井さんへの注文。

細かいところだが、p. 115の「先述のアルミニウムと塩酸の化学反応の例」はそれ以前に見当たらないのだが、私の見落としか、編集過程で落ちたものが残ってしまったのか。再読して見つけたらごめんなさい。

  • 藤岡 信勝 (1976).「僻地における社会科教育内容の研究・第一報: 中学校社会科『産業革命』の授業(その1)」『僻地教育研究』23, 1, 15−30.

 

7/23追記: p. 106に「塩酸にアルミニウムを入れた反応」の観察実験の記述がありました。失礼しました。