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私が紹介せずとも、このブログを訪れる人は手に取ってくれていると思うのではあるが。

書名の通り、小学校英語のジレンマを、歴史的条件(タテの制約条件)と同時代的な社会条件(ヨコの制約条件)から検討する。前半と比べると第7章あたりはやはり難しいと感じる人が多いかなと思うが、それでも、厳密さは損なわずテクニカルなところに深入りせず、かなり読みやすくまとめてある*1。

読んでいて付箋がついたのは前半(特に第4章まで)が多い。個人的に本書の最も優れたところだと思うのは、(戦前の前史にも触れつつ)「政策的に無の時代」から始め、5期の時代区分を設定していることである。前史に深入りし、戦前戦後を細かく見ていたらキリがないが、かといって(政策ルポ系のジャーナリスティックな新書だとそういうまとめ方をするものもありそうだが)必修化・教科化の時期だけ見ていても肝心なことは見えない。この5期を区分することで、「日本では国際理解教育という入り口を経由して小学校英語が発展していったが、それは80年代の自治体独自の取り組みとも連続性があった」(p. 24)ことや、「遊び慣れ親しむだけ」という認識で導入された、総合的な学習の時間における英語活動によって「ほかでもなく小学校卒業生の英語力格差が問題視され、その解消のために、小学校英語の必修化が決定され」(p. 50)たことが見えるのである*2。

印象的なのは、冒頭の「教育改革に限らず、社会問題であれ科学現象であれ人間関係のトラブルであれ、複雑な物事を理解するには、その現象に固有の適切な距離というものがある」(p. ii)という一節だ。新書という媒体は幅広い読者層を想定していると思われるが、著者との共同研究に取り組む者として、学校英語教育に関して、本書を通じてこのことがどのくらい伝わったかに興味があるし、何なら英語教育関係者、特に研究者に向けられたメッセージではないかという気もする。第8章、第9章は特に必読だ。

「おわりに」で提示される選択肢の中で、著者は専科教員型案と全廃論を推している。各自治体の詳細なデータを手にしているわけではないが、本書で明らかにされているロジックをなぞるようにして、専科教員型が進みそうな気配はある。

教科化に(一応)対応した養成課程を経た教員が現場に立つまで、最低でもあと3年かかる。それ以前から小学校で英語を指導するための科目を開講していた大学も複数あるとはいえ、小学校教員の大半が英語教えることに馴染みを持たない状況は5年や10年では変わらない。この状況で、勤務先の卒業生からも、小学校教員として採用された者が専科になったり、中学校教員として採用された者が小学校に異動する報告をこれまでに多数受けている。後者について、小学校教員免許状も持っているのであれば学級担任型でも構わないわけだが、小(3または)5から中3までを見るようなケースを考えても、生徒数の減少につれて教職員数が減らされざるを得ない状況での対抗策としても、教委や学校レベルでは専科教員型が好まれそうに思える。そしてまさに、この専科教員配置について、「(自治体予算で専科を増配しているところもあるから)自治体ごとの格差が広がり、その解消のために」というロジックが展開されるのではないか(文科省にしても自治体にしても、そうでもしなければ加配、ないしは減配の阻止は実現できないのではないか)。

本書を通じて、「そういえば、特区ってどうなったん?どうだったん?」という意識や視点がもっと広がると良いと思う。本書も指摘する通り、特に英語教育に関わるコストは、各家庭が責任を持つ贅沢品のようなプライベート・マターと捉えられがち(で余裕のある家は、英会話教室や留学にお金を投じることを厭わない)だが、直接にも間接にも税金が投じられている以上、公教育として他にもっと有効な使途があったのではないかという目は、英語教育関係者のみならず、広く持たれてよいはずだ。「お肉券・お魚券」や「布マスク2枚」のダメさ加減に市民感覚で怒ることができるのと同じように、市民として学校英語教育政策に怒っていいのである。ただし本書を踏まえれば、その現象の複雑さを適切に理解した上で。

これまで、『「なんで英語やるの?」の戦後史』や『「日本人と英語」の社会学』は興味を持った学生・院生に貸すという感じだったが、本書は、参照してるデータを見ながら、いつかゼミで読むのもいいなと思った。

*1 回帰分析について、1単位時間を100時間にしたのは何故かというのは、KATEの元の論文のときにも聞きそびれた。週1時間だと年間で35授業時間(1時間は45分)なので、35時間を単位にしても良かったのかなと思ったりした(非標準化係数が小さくなり過ぎるが)。

*2 学会発表の時にも聞いた気がするが、やっぱり、専門部会や有識者会議の委員の選定過程が知りたくなってしまう。