[レビュー036]『英語運用力が伸びる5ラウンドシステムの英語授業』(金谷ほか, 2017)

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夏休みの個人的課題図書。

一緒に仕事をしている先生がたが「5ラウンドシステム」に言及することもあり、これについての見解を尋ねられることも度々あって、きちんと向き合って検討せねばと思っていた。機会があるなら実際の授業を観れれば尚良いが、本書を通じて、気になっていたことは自分のなかでだいぶ整理された。

指導案の例は程度の低い授業に比べれば悪くなかったり、各ラウンドの局所的なプロセスには真っ当だなと思える部分もある(逆に納得できないプロセスもある)にせよ、総論としては、授業一般や英語教育に対する考え方が根本的に私とは違うんだなあという感想。つきつめれば、必要な作業量・練習量を授業内でどう確保するかという英語学習の「課題」に対する解決策なのだが、それが果たして本当に授業の課題なのかどうかはもっと検討すべきだ(この点の詳述はいずれ)。

現状の結論として、「(中略)大前提は、英語教育の前に、生徒との良好な人間関係ができていないと5ラウンドシステムのようなやり方は、厳しい修行のようなことになってしまい、大量に英語嫌いを作ってしまうでしょう」(p. 181)というまとめの指摘がまさに決定的と言えるだろう。局所的に納得しかねるプロセスについては特にそこが気になってしまう。例えば「四方読み」(p. 39)。中学時代の私なら指示に従う気になれず、おそらくダラダラやって教室の士気を下げ怒られては英語教師を憎んでいただろうし、高校時代の私なら周りに合わせてやったフリして済ませていただろう。

さらに言えば、「良好な人間関係」には操作的な定義が与えられ(てい)ないので、上手く行こうが行くまいがそこに関して何とでも言えてしまう。「良好な人間関係」があればなぜ「厳しい修行のようなこと」にならないのかも必ずしも自明ではなく、英語をある程度使えるようになりたかったら「厳しい修行」を全員やり遂げろ!という主張が本音のところではないかと感じたりもする(し、それはそれで、私とは教育観・学習観が異なるものの、筋は通っている)のだが。

通読前の最大の疑問は、「ラウンド」の単位が教科書一冊全体なのはなぜかということだった。これについては、(Columbus 21のような)ストーリー性のあるものをベースに置いた発想であり、高知県の学校のような学期ごとUnitごとのラウンド制のような柔軟な運用の試行もあることが示されていて納得した。ひとまとまりのストーリーとして味わうに足るものであれば確かに、中途半端にアウトプットの活動を挟まず、まずはリスニングで内容に徹するというほうが有効な場合もあるだろう。

第3章を読むと、カリキュラム・マネジメント的に、実力と見識のある教員が複数いる学校でなら、目標設定をして教科団で取り組んでいく方法としてはそれほど悪くないように見える。システムとしてこういう風にしてしまえば、テストのためのテストはかえって減り、最終的に目指す生徒のパフォーマンスに目が向きやすくなるというメリットも現状としてはあるかもしれない。生徒のパフォーマンスに目を向けてもらうために、私が同じやり方を採るかと言われればクエスチョンだが、これも一つのやり方として理解はできる。

今後、現場に少なからぬ影響力を持ちそうなので、5ラウンドシステムはそう安易に実施すべきものとも思われないということは指摘しておきたい(上述の「良好な人間関係」でもある意味明白だが)。その意味で、まとめの「教師の力量に左右され」る(p. 181)という結論に大いに同意する。金谷によれば、「このシステムが成功するかどうかは、教師が生徒と身近な話題で簡単な英語を使ってインタラクション(平たく言えば、雑談)ができるかどうかにかかっている」(p. 181)。しかも「生徒にとって分かり易」い英語で。

教育観・学習観は違えど、そうした前提を満たす学校で5ラウンドシステムが実際に生徒の英語運用能力を向上させ、自信につながる側面があること、それを良しとする教師や生徒がいることを否定はしない。ハッピーな授業実践を少しでも増やすならそれはそれとしてあって良い。ただ、単元をassessing cyclesの単位として推奨・探究する私としては、教科書全体が必ずしも「ラウンド」の適切な単位ではないのではないか、という批判の観点は持って今後も実践を見守りたい。テストの内容やデータ解釈の妥当性についてはいろいろとツッコミたいことが散見されるが、ここでは詳細なコメントは控えておく。今後、盛りすぎた万歳報告に出会った際は、その時にすべき批判をするだろう。

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