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積読ならぬ立て掛け読していた『黄金の騎士団』を読んだ。
未完の作品だが面白かった。それ以上に、今を生きる大人の一人として脇腹をツツかれたような気分だが。

Amazonのレビューに一部あるように、連載時(1988〜1989年)の時代背景と絡めてこの作品を論じるのも興味深いが、個人的には、登場人物がときどき語る教育哲学がズバっと効いていて、例えば(文脈がないと言い方に違和感があるかもしれないが)次の一節だけでも、授業やゼミの素材にして、これについてどう考えるか話し合ってみたい、などと考えながら読んでいた。

「四郎五郎くんもその女の子も、ふだんはまったく目立たない子なんです。いや、学力を物差しにして測れば標準より落ちる子です。ところが二人は、ボケ助を物差しにすればクラスの誰よりもすぐれていた。そのことがみんなにも分かったわけで、これは大きい。またボケ助保険の保険料率を決める作業を通して、みんなはいろんなことを調べ、それをもとにとことんまで話し合った。これも大きい。外からは、確かに子どもたちが金の話をしているように見えるでしょう。しかし実態はちがう。彼らは金を通して、今回でいえば、自分たちはネコにどういう責任をもつべきかについて話し合っているんですよ。若葉保険組合を教材にして、金よりもずっと大事なものが世の中にはあるのだと教えたいと云いましたが、それはつまりこういうことだったんです」
頭をテーブルに伏せて居眠りをしていた隣席の老人が宮沢先生の声で目をさましたのか、ヌーッと顔をあげた。
「どうも、失礼」と手をあげて詫びると宮沢先生は、ぼくの方へ向き直り、さらにこうつづけた。
「大学で、学級経営というやつはむずかしいぞ、とさんざん教育されました。そして実際に教師になってみていっそうそのむずかしさを痛感させられています。というのは、学級というものは、勉強のできる子や体育の得意な子、それからゲームのソフトをたくさん持っている子、そういう子どもたちを中心に回っていってしまいがちなんです。ところが今回は、四郎五郎くんや、ボケ助が病気になったらどうしようと云い出した女の子が学級の中心になった。つまり……」
「学級のなかにたくさん柱ができた?」
ぼくは慎重に言葉を選びながら云った。
「子どもの値打をはかる物差しが二本や三本ではなくて六本も七本もできた?」
「おっしゃる通りです」
宮沢先生は大きく頷いた。
「理想をいえば、子どもの数だけ物差しのあるのが望ましい。がしかし六本でも七本でも一大進歩です。そしてこの進歩をもたらしたのがボケ助保険だった。だから残念です。ちくしょう……」
宮沢先生はテーブルにこぶしを打ち下ろした(pp.388-389)。

引用はしないが、この後の「隣席の老人」の反応とコメントが良い。

さらにベンポスタを例に、次のような、授業に出ると給料が支給される仕組みや、試験・点数評価をしないことについての対話もある。

「本当の勉強は人間を賢くするでしょう?」
「だろうね。受験勉強は人間を愚かにするかもしれないけどね」
「ある子どもが本当の勉強をして賢くなれば、本人より周囲が助かるでしょ?」
「そりゃ愚か者が一人減れば、その分だけ周囲は楽だね」
「だから周囲が、ということは子ども共和国政府が、授業に出席する子にお金を払うわけ。一人が賢くなれば、その分だけ子ども共和国も賢くなる。だから授業を受けることは共和国のための仕事というわけ。仕事にお金を払うのは当然でしょう」
「なるほどね」
ぼくは唸ってしまった(p.364)。

「テストは大人のためのものでしょう?」
文夫の目がぴかっと光った。
「大人の物差しで子どもの暗記力を測るだけのくだらない制度だと思います。でも、子どもたちが必要としているのは暗記力をふやすことじゃない。子どもたちは、一生使っても、使い減りのしない本当の智恵がほしいんだ」
「云っている意味は分らなくもないけど、テストや点数評価制度がないと勉強を怠けやしないかい?」
「外堀さんは、ここの子どもたちが勉強のほかに自分の好きな仕事をして働いていることを忘れている。たとえば、ベンポスタには自動車修理工場がある。技術が優秀で、オレンセ市の仕事の大部分をこの工場が引き受けている。自動車のうんと好きな子が午後はここで働く。すると自然にいろんな疑問が湧いてくる。先輩に訊く。だけど先輩の答を理解するには、自分の学力をもっと高めなくてはならないと気がつく。だから教室じゃみんな真剣なんだ」(pp.367-368)

当時と今とでは「受験勉強」や「テスト」が持つ意味合いの文脈は大なり小なり違うが、評価が「大人の物差しで子どもの暗記力を測るだけのくだらない制度」にならないためにはどうしたらいいかを考えるためにも、学生にはこういった意見を検討して欲しい。

先日のNHKの番組でも、フィンランドでは義務教育段階でテストや順位付けをしていないことが話題にのぼっていたっけ。

書籍を手に取るまでこの作品の存在は知らなかったので、「『希望の国のエクソダス』的作品は昔からあったんだなー、ま、当然と言えば当然か」と思っていたのだが、バブルまっ只中の時期に、以下のような言葉を登場人物(の子ども)にサラッと言わせる辺りがアツい。

「世の中は今、お金に狂っているでしょう。お金はもうお金じゃなくなって商品になっているでしょう。だれもがお金があればなんだって出来ると信じているでしょう。お金になるなら、少しぐらい曲ったことをしてもかまわないとみんなは心のどこかで考えている。そういう世の中でしょう?」
その声もガラスの鐘のように澄んでいる。
「そんな世の中の悪い影響をうけて、ぼくたちも金もうけに狂いはじめた……。外堀さんにそう見られたら困る。財テクガキと思われちゃつらい。そこで信彦さんたちは必死になって説明しているのだと思う。ぼくがそうだから、信彦さんたちの気持はよくわかるんだ」
…(中略)…この子はやはりただものではない。この、ぼくたちが生きている世界の過去と未来とを、すっとなんの苦もなく摑み取っているような印象を、ぼくは持った。
「ぼくたちは、相手の武器を自分の武器にして戦っているだけなんです。相手の武器がお金だから、そのお金で戦っているわけ」
「相手って、だれなんだ」
ぼくはやっとの思いで口を動かした。この子が発揮しはじめた或る種の威厳が、しばらくの間、ぼくから言葉を奪っていたのだ。
「ぼくたちの相手は、たとえばオッペンハイマー一族です」(pp.288-289)

BS世界のドキュメンタリーや映画の「ブラッド・ダイヤモンド」を思い出す。