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誰が読んでくれるのか分かりませんが,

のまとめを何回かに分けて。

はじめに

Larsen-Freeman (2002)は,多くの教師と学習者の文法に対する見方を拘束服に喩えている。それは身動きの取れないガチガチの形式的規則に彼らがウンザリしているからであり,他方で(日本における英語学習の場合,意識されることはそれほどないとしても)「標準語」を正確に話せないと失う社会的な機会が存在し,ウンザリしつつも形式にこだわらずにはいられない現実があるからである。

Larsen-Freeman (2002)は,このような,文法が単に形式的正確さとのみ関わるものだという一般的誤解を打ち砕くことを目的としている。この誤解や上述の拘束服としての文法観は,明示的にせよ非明示的にせよ,外国語として英語を学ぶ日本の教師と学習者の多くも共有している。抽象的に文法を礼賛する気は全くないが,首肯するのはこの文法観の変革という点である。「話せるようになったけど,文法はつまらなかったな」とか「英語できるようになったけど,文法が見通しを広げてくれたなんてことはなかったな」などという状態が仮にあったとしても,それは目指すべき文法教育の姿とは言えない。

定義

ここでは「文法」を,学習者がその言語を正確かつ有意味かつ適切に使うことができるようにするものと捉えることを提案している。つまり文法についての知識が,形式を支配する規則だけからなるのではなく,「われわれが表現しようとする意味を伝える形式を,個々の文脈に即していつ使うべきか」ということについての知識も含むということを言わんとしている。例えば,(1)のようなごく限られた規則の集合にも,いつ使うべきかという選択は存在するというのである。

  • (1)
  • a.   I am → We are
  • b.   one child → two children
  • c.    A fragrant meadow → *A meadow fragrant

(1a)はbe動詞に関する主語と動詞の一致の規則だが,単に「一人称単数にはam,一人称複数にはareを使わなければならない」という形式的説明で終わるわけではない。(2)のように,仮に同じ命題内容であっても,話し手が聞き手に対して自分の働きかけ(話すという行為)を打ち出すのか,聞き手がその出来事の中に含めて考えられていると感じさせたい(連帯感を出す)のかによってどちらを用いるかということに選択の余地がある。

  • (2)
  • a.   I am speaking about the grammar of choice this afternoon.
  • b.   We are speaking about the grammar of choice this afternoon.

(3-4)は,主語が同じ場合でさえ動詞の形式に選択の余地があることを示す例である。つまり,話し手が「家族」をある一つの単位とみなしているのか,その単位を構成する個人の集まりとみなしているのかという違いが動詞の選択によって示されることになる。

  • (3) My family is coming over for dinner on Sunday.
  • (4) My family are coming over for dinner on Sunday.

(1b)の可算普通名詞については複数性という概念的意味を表すこと以外に両者の選択を想像することは難しいが,例えば‘child’に同義語として‘kid’があることを考えると選択の可能性が生まれる。そして,英語話者の多くは一人の子どもをkidで指し示すことを――軽蔑的なニュアンスを含むため――好まず,代わりに‘son’や‘daughter’を用いるだろう。しかしその一方で,二人以上の子どもにkidsで言及することには全く問題がないという。個々の名詞の語法の問題が絡んでくるという点で(1a)の例と少し事情は異なるが,これも文法構造の選択が単純な形式的正確さ以上の違いをもたらすことの例示の一つだと言えよう。

  • (5)
  • a.   One kid → Two kids
  • b.   ?My kid is home sick from school today.
  • c.    My kids are home sick from school today.

(1c)の形容詞と名詞の語順(いわゆる帰属的用法)については,実際には(6)のように形容詞が名詞の後ろにくる場合もある。

  • (6)   That meadow fragrant with the smell of newly mown hay reminds me of my youth.

Larsen-Freeman (2002)はこのことについて,「名詞の前の形容詞は名詞の永久的な特性を表す傾向があるのに対し,名詞の後の形容詞は一時的な特性を表す」というBolinger (1967)の指摘を引いている。したがって,(1c)がその草地の特性について述べるものであるのに対し,(6)は匂いの特徴を特定の出来事に関連づけようとしたものだと説明することができる。

これ(と(3-4))は,そもそも表そうとしている意味が異なるのでここまで述べてきたような選択の対立を構成する例とは言えないが,どの形式が自分の意図する意味を明確に表すのかということの学習は使い分けの学習に先行して,あるいは同時並行的に,あるいは行きつ戻りつ体系的なやり方で行われなければならない1)

Larsen-Freeman (2002)は,(2)や(5)のような語用論的意味の違いをもたらす選択を中心に扱うことを意図している。それは,母語話者の規準に照らして学習者のパフォーマンスを判断しようとかすべての学習者がそうした規準を持つべきだということではなく,学習者は英語の話し手として自分をどのように位置づけたいのかを決めねばならず,そのためにも彼らがそのような言語的選択を理解できるようにすべきだということである。このような選択の理解によって学習者は,話し手として,使用する形式とそれが表す意味を重視するようになり,聞き手として,話し手が選んだ形式の意図を推論できるようになることが見込まれる。教師の側から見れば,生徒に安易な解答を与えて後に混乱をもたらすのを避けるためにも,生徒が選択の存在や個々の選択がもたらす帰結を理解するためにも,個々の文法形式をいつ・なぜ用いるのかを理解することが必要だと言える。

問題は,その使い分けの体系をどのように記述し,教育内容として構成するかということであるが…。続

  1. こうした形容詞の一般的特徴づけは,帰属的用法と叙述的用法の違いとしてCruse (2004)でも与えられている。この特徴は,(ii)に見られるような,どちらかの用法でしか用いられない形容詞や,用法によって意味が異なる形容詞の理解にある程度貢献すると言えるだろう(例はHuddleston & Pullum 2002: 57, 554から)。
    • (i)
      • a.   Be careful, that water is hot.
      • b. Be careful, that is hot water.
      • a. Don’t add too much detergent――our water is soft.
      • b.   Don’t add too much detergent――we have soft water.
    • (ii)
      • ①   a.   a sole parent                                     b. *The parent was sole.
      • ②.  a. *an asleep child                                  b.   The child was asleep.
      • ③   a    the late queen(“recently deceased”)  b.   She is late (“behind the schedule”)

参考文献

  • Bolinger, Dwight (1967). “Adjective in English: Attribution and predication.” Lingua 18. pp. 1-34.
  • Cruse, D. Alan (2000, 20042). Meaning in Language: An introduction to semantics and pragmatics. Oxford: Oxford University Press.
  • Huddleston, Rodney & Pullum, Geoffrey K. (eds.). (2002). The Cambridge Grammar of the English Language. Cambridge: Cambridge University Press.