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英語教師は、とかく「英語力」の高低に関して批判にさらされる*注。思い出混じりの恨みつらみに始まり、何らかのスコアや資格を満たさない教師はダメだとか、ヒドい場合は「○○ができない/△△を知らない教師は辞めるべきだ」(○○/△△には、英語教師に必要だとされている技能・知識を当てはめてみると良い)などとまで。私個人に向けられていると捉えれば、甘んじて受け入れるときもあるし、ひたすら哀しくなることもある。最近もそういう言説を目にした。うまくまとめられないが、考えるところを述べておく。

私が特にゲンナリするのは、こういった言説の出所が英語教師(あるいはそれに近い人)自身である場合だ。学習者が率直に感想を語るのは構わないし、ユーメージンやケーザイカイの某が事情をよく知らずに打っている分には無視するだけ(場合によっては気にするのだが、さしあたりは措く)なのだが、何を基準にどういう目線でそんなことを言えるのかも定かでないのに、外側から見ると「自己批判」や「内部告発」をしている風に映りそうでタチが悪い。例えば理科教育で「あいつは実験ヘタでダメ」なんてdisる(ことに意味あると思ってる)人がどのくらいいるのかは知らないが、広い意味での「同僚」をdemotivateするようなことを言って何か意味があるのだろうか。

そもそも人の、あるいは専門職の力量、ひいては存在をそのような単純なモノサシで測れると思うことにも驚くが、そういう見方で別の教師の実力が足りないとか足りるとかを云々するとき、その価値観が学習者に与える影響については考慮しないのだろうか。他者をそのように見る教師のもとで、生徒・学生だけがクラスのメンバーを多面的存在として受け入れ、自分たちより(その時点で、しかもある一面で)「劣る」ものを蔑んだり疎んじたりするようにはならないとなぜ言えるのだろうか。何らかのスコアや資格のみで教師の能力を云々したり、「○○ができない/△△を知らない教師は辞めるべきだ」などとのたまう輩は、自分の生徒・学生が「英検○級を取ったから誰それはエラい」とか「きれいな発音ができないアイツはダメだ」などと得意げに語る姿を想像してみて欲しい(この記事は、それが気にもならない新自由主義的な人には向けていない)。

もちろん各教師が自分自身について、スコアや資格を成長の目標として設定したり「○○できること」や「△△を知っていること」を重視したりするのは構わない。しかし、そういう自身の価値観や「能力」について矜持を持つこと――そりゃ教師としては、生徒・学生の前で「私は新米だから…」などと言い訳はできない――と、それを他者に押し付けたり、教師を支えるべき人間や外野がそれが欠けているからダメだなんだと騒ぎ立てたりするのは全く別のことだ。身内に優しくしろと言いたいわけではない。一般論で語らなくたって、身近な同僚に一つや二つ、いや無数の不平・不満もあるだろう。個別の事例について、誤りを誤りと指摘したり、意見を戦わせるべきこともある。しかし私は、原因の全てを個人の「能力」に帰することに意味があるとは思えないのだ――ましてや他人にその職を辞めるべきだなど。

キツい言い方で教員養成の問題を指摘しようとしている場合もある。確かに免許を取得する課程や採用試験を厳しくすることはできる(個人的には、それ以上に配置や世代間継承の問題の方が深刻だと思うが)。現行の制度に問題がないとも言わない。しかし、こういった言い方をする輩には、どれだけ教職課程や採用試験のハードルをあげようとも(誰がそれを妥当かつ十全だと判断できるというのか)、そもそも教職(というよりあらゆる専門職)は、免許取得や採用がゴールではないという視点が欠けているように思われる。

むしろ教師集団として、年齢も経験も得意・不得意も異なる同僚とどう仲良くケンカしながら専門的文化を構築し、毎日の実践と職務に七転び八起きしながら成長し続けるか、その環境をどう作ろうとしているか、それこそを厳しく見ることが重要だと考える。現時点でどういう地平にいようと教師は教師であり、違う地平にいようと同僚は同僚なのだ。私は以前、学習者について以下のように書いたことがあるが、これは英語教師(集団)にも当てはまると考える(亘理 2010: 30。カッコ内は引用にあたって追加した)。

外国語としての英語(の教育)に関する能力は、それ自体が多面的で、人間の多様な能力・価値の一部に過ぎないのだから、それを学ぶ(そして教える)過程は、人間性やものの見方・考え方を豊かにするものではあり得ても、人を選別したり自尊心を傷つけたりするものであってはいけない。

この点でも、即物的完成品としての教師像は、専門職のダイナミックな成長についての考察を欠いており不毛だ。英語教師としてのfundamentalsの議論はあってもいい。叱咤激励もよろしくどうぞ(「ダメだ」とか「辞めろ」は叱咤激励にあらず)。しかしそれにしたって、色んな教師がいていいじゃないの。学習者の成長を温かく見守れるんなら、教師の成長も温かく見守ってよ。

文献:

  • 亘理陽一(2010)「大学における実践 『リメディアル』教育で生かす学び合い」『英語教育』59(4): 30-32.