[雑感004] SLA研究者とSLA研究を学ぶ先生にお願いしたいこと。

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普段からお世話になっている奈良教育大学の佐藤先生が、今月の大修館『英語教育』誌に記事を寄せられました。

別のところで書いたことですが、佐藤先生の記事に対するコメントというよりは、この話題を含めて普段から、英語教育に対して第二言語習得(SLA)研究の「知見」が引かれる際に思うこと。この場合の英語教育というのは、学校教育の一環としての外国語としての英語の教育という文脈です。

なお、あらかじめ断っておきますが、私は、少なくないSLA研究者を尊敬して止みませんし、SLA研究が、個々の現象について言語習得の普遍性と(言語ごとの)個別性にかかわる確度の高い研究を提示していることを否定するつもりも毛頭ありません。

まずは佐藤先生の記事をお読みください。

「英語の授業を英語で行うことに否定的な見解」に、少なくとも第二言語習得上の直接的「根拠がない」ことは(管見の限り)事実で、佐藤 (2014)は実践的にもバランスのとれた議論を提示していると感じます。私がここで述べることは、「授業中に生徒が聞いたり読んだりする英語の量をもっと増やしましょうよ」という主張を否定するものではありません。

佐藤 (2014)で引用されているKrashen (1982)は「言語習得には大量のインプットが不可欠」であることを説きますし、SLA研究者もほぼ全員がこれに同意すると思います。しかし、どのくらいであれば「大量」なのかSLA研究は一向に示してくれません。しかし、少なくとも英語教育界隈や一般に手が届くレベルに伝わる「(理解可能な)大量のインプットと、少量の(あるいは、適量の)アウトプット」という「仮説」は、そのままでは反証しようがない。その意味で「仮説」とは言えないものです(反証可能性の説明は、さしあたりこちらを参照してください)。

例えば、こちらがどんなに「大量の」英語を与えたと思っても「そんなんじゃ大量とは言えないね」と言われてしまうかもしれない。逆に、(自己認識として)効率よく「わずかな」英語で学んだと思っていたら、「いやあ、いっぱい聞いていっぱい読んだんだね」と言われるかも。要するに「量」に具体的な合意がない。だから、それを「メカニズム」として教育に応用するためには具体的にどのくらいの語数・文章量、時間等々の「インプット」があればいいのか示す必要がある(実際には要因が様々に絡み過ぎていて、そんなことが現実的に可能だとは思いませんが)。そうしないと、教師が「できるだけ多くの英語」を使ったとして、それはSLA研究の「大量のインプット」という「メカニズム」から見て、雀の涙程度の話でしかないのか、「大量のインプット」にかなりの程度近づくことなのか、分かりません。「理解可能な」についても同様です。それがあらかじめ分かれば苦労はしません。

おそらくSLA研究の主張する「大量のインプット」は、インプットがないよりはあったほうがいい。風邪を治すには、寝ないよりは寝たほうがいいぐらいのものです(それよりはもう少しマトモで「ないでは済まされない」ぐらいでしょうが)。その意味で当たり前のことです。しかし基準がない。つまり方向目標としての、「できる限り大量のインプットが与えられるようにせよ」という格率(maxim)みたいなものです。副詞の語順とか複合名詞の話とか、個々の現象についてはあんなに面白い話をするSLA研究が、こういうグランド・セオリーっぽいものになった途端、陳腐になるのが個人的に残念です(と最初は書いたのですが、より正確に言えば、格言程度のものが「仮説」という誇大な看板で掲げられることが残念)。

「仮説」とは言えないものを「仮説」ないしは「理論」として掲げ有り難がるのは、SLA研究にとっても英語教育研究・実践にとっても、好ましいこととはあまり思えません。それは「権威としての知識」を無批判に受け容れることにつながりがちで、それはSLA研究も(というか研究者が)最も忌み嫌うことのはずだからです。佐藤 (2014)が言及しているMacaro先生の「80%以上」というのも、その数字でなければならないという根拠が示されているわけではありません。今後(classroom) SLA研究の知見を引く際には、個々の研究結果、つまり具体的にどういう条件で、どういう対象に、どういうトリートメントや介入をした結果、どういう結果だったのかということを以て、その解釈と適用範囲に極力誤解のないような形で語るようにして欲しい(私自身もそうしたい)。

別の問題は、佐藤先生も言及している通り、そもそも文科省の「授業は英語で行うことを基本とする」という方針も、何か第二言語習得上の具体的な根拠があって提示されたものではないということです。押し付けを嫌う教師たちがこれに抵抗を覚えるのは理解できます。そしてSLA研究者の方々には、もともと直接的なつながりのないSLAの知見がこの方針と結びつけられ、科学的な装いをまとって押し付けられる場合があることの可能性と暴力性を認識してほしい。言語習得の問題ではなく、教育学的、実践的な問題として、私個人は、私の同僚の「いつどの言語で教えるかは教師が判断し決めるもの」という見解を支持します。現にかつて拙論(亘理, 2011)でも触れましたが、Macaro先生らの研究は、言語習得上の問題以上に、学習者・教師が母語使用に罪の意識を感じたり、教師の授業構成の工夫を狭めたりといった弊害が実際にイギリスで起きていることを示しています。

だから、

という浦野先生の発言は尤もなのですが、実際には、先生が全て英語で授業したところで、A君はアイドルのことばかり考えBさんは彼氏のことばかり考えていたりするわけで、英文や課題が退屈だったり資料が見難かったり部屋が蒸し暑かったり、現実に学習を阻む要因は無数にあります(逆に促す要因も無数にあるでしょう)。そんな現実の英語教育実践を考えると、少なくとも「インプット仮説」ぐらいのレベルではSLA研究はそれほど実践的に役立つことを明らかにしているわけではない(から引用するのそろそろやめません?)と思うわけです。もちろんさしたる根拠なくある教え方を「時代遅れ」と断ずるのも学問的態度とはおよそ遠いものであることは付言しておきます(「時代遅れ」でも何かしら先生や生徒にとってメリットがあるなら時代遅れ万歳なのですが)。

授業の実際ということで言えば、佐藤 (2014)には、教師の話す英語がインプットの主たる源泉になるという前提があります。しかし、仮にSLA研究の教えにしたがって「理解可能な大量のインプット」を厳格に重視するとすれば、それは、必ずしも日本語を母語とする英語教師の話す英語からのみもたらされるわけではないはずです。ALTが話す英語だってCDやビデオのモデル音声・映像だって良いわけです。つまり「理解可能な大量のインプット」と「教師からの質の高い大量のインプット」は一対一対応ではない。SLA研究の知見を引いて理論的な議論をするのであれば、そこは混同すべきではないと思います(むしろMacaro (2001)などで実証的に示されているのは、教師の目標言語使用量と生徒の目標言語使用量との間の相関は低いということでした。生徒の目標言語使用量が直ちに目標言語習得を意味するわけではありませんが)。

はっきり言ってしまえば、下手な英語で下手な授業をされるよりは、CDのモデル音声や映画に頼ってでもいいから、面白い授業、英語にもっと触れたい、英語のことをもっと知りたいと思わせる授業をしてくれ、と私は思っています(これも教育学的な、実践上の問題として)。ただ佐藤 (2014)の主張は「最初から生徒の英語使用を多くしようと考えるんじゃなくて、教師自身がたくさん英語を使って見本を見せようよ」というもので、「英語を話したいという気持ち」(WTC)の変化に関する佐藤先生たちの研究に基づくものです。実践的に見てこれは尤もでしょう。先生自身が英語を全く使わずCDを流しているだけで、生徒が英語を聴こう読もう、あるいは使おうという気持ちになるとは考え難い(もちろん先生の存在なんかに関係なく、One Directionのおかげでそういう気持ちになる可能性は大いにあります)。先生自身が英語使用者のモデルであって損をすることはない(あまりに手が届かない感じだとやる気を削ぐ可能性もあるでしょうが)。ただ、選択肢はそれだけではないとも思います。上でも述べた通り、教師が英語で授業をするのもあくまで選択肢の一つであり、適宜日本語を使うのも、他のメディアやツールを使うのも教師の選択と判断に過ぎません。そこに「インプット仮説」や「アウトプット仮説」レベルの知見が何か具体的な指針をくれるわけではない。

佐藤 (2014)の提言も結局は、「生徒が興味を持って積極的に参加したいと思う授業を、なるべく英語を基本として展開してくれ」ということです。「『授業は英語で』は時代遅れ」という主張に対する反論記事ですから後半部分に焦点が置かれますが、私がそれ以上に重要かつ困難だと思うのは前半です。佐藤(2014)の主張が、教師の喋る量を増やせばいいんだ!という短絡的な解釈に取られないことを願います。

「授業は英語で」ということが言われるのは、授業を日本語一辺倒で行っている実態が少なくないからでしょう(日本全国の高校の授業を観たわけではありませんが)。その点でも佐藤 (2014)の主張は尤もです。ただそこで、「そうだ、そうだ、英語で授業をしない/できない教師はダメだ!」という前に、なぜそういう実態となっているかを少し考えて欲しい。

日本語を使わないと授業が成立しない多くの教室があります。0か1かの問題ではなく、複数の要因が絡み合うグラデーションあるいは多次元方程式のなかで、目の前の生徒に対して自分が思う最善の授業をしようとした教師が自身の授業中の使用言語として英語を選ばなかったとしても、私はそれを責める気にはなりません。まずは授業を見、その判断の理由を聞き、一緒に考えていきたいと思います。逆に、自分は8割方英語を使ったど!と息を切らしている教師がいた場合も同じです。それが直ちに肯定すべき状態とは思われない。

英語で授業をするのが物理的、(現時点での)能力的に困難な教師もいます。現行の指導要領の下で、成績評価や進路等々の要求を満たしつつ、英語を基本とした授業を展開しようと思えば、相当の準備が必要です(少なくとも私には、現実に今、例えば進学校の多くで使用されている『CROWN』の文章を批判的に読み、クリエイティブに活用する授業を英語で展開できる先生がそんなにたくさんいるようには思えません。尤もそれは使用言語にかかわらず感じることですが)。果たして先生がたにそんな教材研究の余裕があるでしょうか?新人教師にそんな余裕があるでしょうか?教員採用の仕組みは、そのような高い言語運用能力と授業力を持った人だけを採用する仕組みになっているでしょうか?英語教師はそのような高い要求をするのに見合った魅力的な職業であれているでしょうか?

そういうことを考えていただきたいのです。浦野先生が言う、

ということについて考えていただきたい。

どうか「授業は英語で」あるいは「授業は日本語で」が、それをできずにいる英語教師を断罪・抑圧するものとなりませんよう。

You are the master of your fate. You are the captain of your soul.

4 Comments

  1. 自分自身の学習の経験では、大量に読む聞く、という勉強法は非常に効果があると思います。とくに、無理にアウトップトをしないのは大事だと思います。中にタネが無いのに、どうして外に形にしてだせるでしょう。文法と単語の知識でえっちら捻り出した文章はどうしても不自然になってしまいます。多数の文例に触れることで、とくに勉強しなくとも、英作文は自然と出来る様になりました。単語集も熟語集も週に一回くらいちらり見て確認する程度で充分でした。30年近く前の古い時代の話ですが。

  2. 私自身、言語習得研究における(全面的ではないとしても)疑似科学性を問題にしてきましたので、強く共感いたしました(誤読による勝手な共感であればお許しください)。
    ぜひ、私の教え子にも読ませたいと思います。勉強になりました。ありがとうございます。

  3. インプット仮説が具体的な指針を与えてくれるものではないにしても(というか理論ってそういうものでは?)、だからといって、「格言程度のもの」と言い切ってしまうのはあきらかに言い過ぎでしょう。それなしではいかなる目的であっても言語習得が進まないのですから、どんなときでも教員はそれを意識するべきです。ただし、これは具体的な指針を示したマニュアルではありませんから、その「量」に関しては目的と生徒のレベルを勘案しながらその都度教師が考えていくしかないでしょう。その場合でも常に「インプットの量をできるだけ多くするべき」という原則があるからこそ、「アウトプットの量がインプットよりも多くなってはいけないな」とか「文法学習の量がインプットより多くなってはいけないな」とか判断できるのです。これだけでも、教員にとってどれだけ有り難いことか。

    「「インプット仮説」ぐらいのレベルではSLA研究はそれほど実践的に役立つことを明らかにしているわけではない」と書かれていますが、とんでもない話で、めちゃくちゃ役立っていますよ。私はSLAを独学で学んで、その知見をできるだけ普段の授業で生かすようにしていますが(extensive reading、input processing、focus on formなど)、私が担当する学年は外部模試において、その成績が1学年上の学年を上回ってしまいました。まったく同じ問題を受けたにもかかわらずです。それまでの学年はどの学年も文法訳読式で、ほぼ同じ点数を毎年取っていましたから、この差は際立っています。ちなみに私がこの学年に付く前は、とくに他の学年との差はありませんでしたから、この学年が特別に優秀だということもありません。インプットを大量に与える授業を2年間行った結果、追い抜いてしまったということです。実践に役立たないどころではありません。白井先生も同じような経験をされたことがきっかけでSLAの道に進まれたようですね。

    先生は、教育現場では様々な要因が絡まるのでインプット仮説など大して役に立たないと書かれていますが、あまりにも強引でしょう。たしかに、「教師と生徒との信頼関係」という条件は、インプット仮説より先にくるものでしょうが、その他の要素(プリントが見づらい、集中できないなど)は些細なものであり、マスで見たときにはそれほど大きな違いになりません。先生はまるで教室空間をカオス空間のように捉えているようですが、現実にはそれほどカオスで予測不可能なわけではありません。少なくとも私の学校においては、ある教え方をすると必ず毎年同じような点数になります。あるクラスでは講師の先生が不慣れで授業崩壊寸前だったとか、A教室は工事の音で先生の声が聞こえなかった、とか色々な違いがあるにも関わらず、マスで見るといつも決まった点数になります。最大の要因になるのはインプットの量であり、これがあまりにも強力なので、他のあらゆる要因が些細なものに見えてくるほどです(だからといってどうでもいいとは言っていません)。

    もう一つだけ。押しつけを嫌う教師が文科省の方針に対して抵抗する、ってなんだか格好よく見えますが、現実には現状維持を望む教員が「文法訳読法から変わりたくない」って駄々をこねてるのがほとんどです。現状を変えたいと思ってる教員たちは文科省の方針に賛成で、むしろ嫌っているのは、先輩教員たちによる文法訳読法の押しつけです。教員の見方をしてくれているような論考で一見ありがたいのですが、実際には教員のなかでもこのような対立があり、むしろそちらのほうが文科省の押しつけなんかよりもっと切実な問題なのだということもお忘れなく。

    • admin

      2014年8月28日 at 15:07

      コメントありがとうございます。

      最初の点ですが、「『インプットの量をできるだけ多くするべき』という原則」でしたら私も異論はありません。研究の世界においては「仮説」という用語をもっと厳密な(どうなればそれが反証されたかが一意的に定まる条件を明確にした)意味で使いますので、そういうことを主張・引用する研究者の責任として厳密さを要求したまでです。先生方、というよりも読者一般がそういった知見をどのように解釈するかに私は立ち入るつもりはありません。全く自由なことと思います。

      先生が現に非常に役に立っていると仰っているのですから、その事例においては、「『インプット仮説』ぐらいのレベルではSLA研究はそれほど実践的に役立つことを明らかにしているわけではない」というのは言い過ぎですね。ただ私はSLA研究全般、あるいは先生が挙げてらっしゃるような介入の仕方(指導法)が役に立たないとは一言も言っておりません。

      3点目の「あまりにも強引」というのはどういう意味においてそう言えるのか、よく分かりませんでした。私はそもそも、授業や生徒を「マスで」見て、あるいはテストの得点云々で見てこの話を書いたわけではありませんので、「マスで見たときにはそれほど大きな違いにな」らないというのがどういう意味なのかも分かりかねます。「ある教え方をすると必ず毎年同じような点数にな」るというのは、全員が100点満点の到達度テストで80点以上とか100点に近い点数になる、あるいはTOEIC等の外部試験(熟達度テスト)で全員が等しく一定のスコアに達するということでしょうか。それでしたら「その他の要素」は確かに些細なものと言えるかもしれません(上に挙げたのは分かりやすい例ですが、そういった他の要因が学習者・教師にとって本当に些細なものかどうかは予断できるものではなくempiricalな問題です)。平均点等で表される分布の話でしたら、私の意図とはそもそも違う次元の話です。

      最後の点、「先輩教員たちによる文法訳読法の押しつけ」を「嫌っている」教員が少なくないというのは全くその通りだと思います。ご指摘ありがとうございます。ただ、私は「格好よく見」せようとしてこういう書き方をしたのではありません。元々「『授業は英語で』は時代遅れ」という記事があり、それに対する反論記事を引きながら書いていますので、その文脈をご理解いただければ幸いです。

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