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『坂本ですが?』を紹介した時に、教職や学校を描いたマンガやドラマの変遷に触れ、本作にも言及したが、教師を目指す学生・院生にひとつだけ読んでもらえるとすれば『鈴木先生』を選ぶだろう。特に教育実習等でそのしんどさを知ってもなお、学校の営みと子どもに対して過度に性善説的な発想を持ち、教育の暴力性にあまりにも無自覚である場合には(そういうことをマンガではない本を読んで考えたい人は、こちらのブックガイドを参照)。その後ドラマ化もされたが、マンガには長谷川博己さんやその他のキャストのようなシュッとした人は出てこない。もっと劇画的でキャラクラーも描写もゾワゾワ、ドロドロしており、それこそが作者・武富健治の作風として本作にユニークさと深みを与えている要素なのだ。

「教育学」や「教育原理」を担当していた頃によく紹介していたのは、第2巻の「@嵐の前夜」の冒頭。鈴木先生が、教育学の研究者となった友人の新刊を書店で手に取るところから話が始まる。電車を待ちながら本をめくると、若き日の鈴木先生がその友人に語ったフレーズが、章題として引用されている:

「新世代に流行する悪しき風潮の多くは前時代の悪しき風潮の安易な克服である。」

このヤング鈴木のちょっと気取ったフレーズを見返してつらつらと思うのは、英語教育の現状に思いを馳せて、ある風潮が「安易な克服」だと根拠を持って言える人がどのくらいいるのかということだ。そのためには前時代についてよく知らなければならない。最近、故あってそういう原稿を書いたせいで余計にそう思うのだが、戦後の国内の外国語教育、英語教育の蓄積はどの程度吟味され、引き継がれているだろうか。国内に限定しなければならないということはないが、例えば1960年代以降をちょっと紐解くだけで、研究社の『教室英文法シリーズ』や『現代英語教育講座』を初めとする講座・叢書が無数にあり、英語教育関係者は途方もない労力を、当時の英語教師や教員養成に注いできたことがわかる。それがもたらしたものは、良い面も悪い面も、伝えられているだろうか?

理科教育や数学教育ではかつて、民間教育団体が「理科は自然科学を教える教科である」、「数学は数学を教える教科である」と主張したことがあった。そんなの当たり前じゃないかと思われるかもしれないが、わざわざそう言わなければならなかったのは、「科学的態度の養成」とか「論理的思考力の鍛錬」といったことが主たる目的とされ、科学と教育とを分離しようとする動きが実際にあったからである。それを思い出してみると、昨日の記事で触れた「英語の授業は英語で」という主張も、「英語は英語を教える教科である」という当たり前のことを言わなければならない実態を一部には反映しているという整理が後には可能かもしれない(誰がそれを言っているかという違いは極めて大きいものの)。そう考えるとこれも、私の指導教員の一人がかつて言った「対立と相互浸透の過程」とみなせるのかなあ、と考えたりもした。

と、マンガ紹介から離れてしまった感があるが、鈴木先生の苦悩と狼狽は、半端なドラマなど目ではない。教職と関係のない方もぜひ味わっていただきたい。

To be continued…