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[本191] イリイチ『シャドウ・ワーク』
- イリイチ(玉野井芳郎・栗原彬(訳))(2023).『シャドウ・ワーク』岩波書店.
いまさらながら、『シャドウ・ワーク』の第5章「生き生きとした共生を求めて: 民衆による探究行為」が鮮烈に面白かった。『テクストのぶどう畑で』を読む前に読んでおくべきだった。ただし、2023年後半に刊行された本書には、前の版の解説に加えて、文庫版解説「ヴァナキュラーな生を求めて」(栗原彬)が加えられている。
「彼〔12世紀の思想家ユーグーー引用者〕は機織や交易や医療や上演についての探究行為が、その探究者の英知を練磨するのに寄与するところがあること、言いかえれば、探究者がみずからの存在の弱さを癒し自己回復するのに貢献することを望んでいた。ユーグは実用的な技術に真理を映し出す鏡を求めていたのであったが、テキストの他の箇所では天地の万物と人間の魂とを他の二つの偉大な鏡として述べている。彼は、サイエンスにみちびかれた技芸の実践をとおして自分の鏡を磨くことを望んでいた」(p. 212)。
『コンヴィヴィアリティのための道具』は、拙論「エンハンスメントとアダプテーション: デジタル・テクノロジーによる主体性の行方」の元となる学会発表をした際に検討したのだが、「生き生きとした共生=コンヴィヴィアリティ」という言葉でイリイチが何を言わんとしていたのかを検討する際、こちらの方が根源的な示唆を含んでいる。読む人が読めば、「学びの対話的実践の三位一体論」とのつながりも読み取れるだろう(今では『テクストのぶどう畑で』の入手が困難ということもあり)。
「今日、テクノロジーという用語は英語では、道具それ自体を指すのにもっぱら用いられている。たとえば、コンピュータ、バイオ・ガス・ダイジェスター、機械の集積場、ある文化の道具一式、といった類いである。さらに英語では、テクノロジーは、専門技術化された役割を示すために使われている。(中略)この用語の英語の意味は、いまや世界中に流布している。しかし、ごく最近にいたるまで、ドイツ語やフランス語ではそうではなかったのだ。ジャック・エリュールはきわめて正当にテクニックス(それは、今日では英語のテクノロジーの意味だが)とテクノロジー(la technologie)とを区別している。つまり、フランス語のテクノロジーとは、人間と道具とのあいだの関係を批判的に分析することである。これを同じことをきちんと語るために、私は『批判的テクノロジー』という言い方を提案したい」(p. 216)。
敷衍すれば、英語はコミュニケーションの「道具」だ(あるいは、に過ぎない)と語る人たちは前者の意味に囚われていると言える。それを自覚するためにも、けして簡単に読める文献ではないが、ないからこそ、本書を読む価値は外国語教育関係者にもある。そしておそらく後者の意味で「言語教育からことばの活動へ」と提唱している人たちにも、「コンビビアリティ」を標榜するのであれば、ぜひ本書を読んでほしいと思う。