「いる」ことについて、ケアする・されるの関係について、ケアする人をケアする人について、前半だけでも先生がたに心からオススメしたい本。

全体として見たときに最も重要で、ケア(とセラピー)をめぐる問題について著者の声が反響して残るのは最終章だが、特に4章、5章の文章としての完成度が、書き手としてやっかみを覚えてしまうほど素晴らしい。おそらく年間を通じても最良の出会いの一つだろう。

第4章で、キテイ『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』を引いて、「依存労働」という概念が紹介される。「脆弱な状態にある他者を世話(ケア)する仕事」という定義からは遠いように見えるが、ここのくだりを読んでいて脳裏に浮かんだのはやはり学校の先生のことだった。

「依存労働」とは、誰かにお世話をしてもらわないとうまく生きていけない人のケアをする仕事だ。「弱さ」を抱えた人の依存を引き受ける仕事といってもいい。

(中略)ケアってそういうことなのだ。なんらかの脆弱性を抱えた人には、さまざまなニーズが発生している。誰かがそれに対して臨機応変に対応しなくてはいけない。だから僕は麦茶もつくるし、床にこぼれてしまった沖縄そばの残骸を雑巾で拭き取る。結局のところ、誰かがそれをやらなくちゃいけない。

キテイは、そういう依存労働が専門家の仕事とはみなされにくいことを強調している。

依存労働の仕事としてすぐ思い浮かぶのが、一人であらゆる仕事をすべてこなす形態であり、仕事が合理化され、専門化されるようになると、依存労働とは認識されない傾向にある(同書85頁)(p. 104)。

これを読んで自分たちに思い当たると感じた先生も多いだろう。学校外の人が知らないことも含め、「結局のところ、誰かがそれをやらなくちゃいけない」ことを先生がたは日々の仕事で無数に引き受けている。

先の記事で言及した東大の講演でも触れたが、教育に対する数値管理や過度な測定要求がどうして跋扈するのかに対する一つの分析として、ここ数年ポーターの『数値と客観性』を引用して、われわれの社会において、学校教育に携わる者が専門職として十分な敬意を払われておらず、(肥大する一方の要求に比して)社会的に適正な処遇を受けていない現状があることを指摘してきた。

社会での専門家に対する信頼が弱いとき,あるいは弱くなったとき,エキスパート・ジャッジメントに代わるものとして「数値」あるいは「手続き化」がすすむ。定量化あるいは手続きの標準化とは,力をもつ部外者が専門性に対して疑いを向けたときに,その適応として生じるのである(p. 303)。

上記の東畑(2019)の引用の最後の部分で思い至ったのは、社会から、実質を伴って教師が専門職として扱われることを阻んでいるのは、まさにこの依存労働的性格ではないかということだ。

社会の諸矛盾が学校に押し付けられた結果として教職の依存労働性が高まり、結果として専門職としての信頼が弱まるのか、専門職としての信頼が弱いことの結果として、学校にあれこれが押し付けられ依存労働化が進行するのか、あるいは両方が同時進行なのか、その検討は別に必要だろうけども、さしあたりこの思索の果てで私にとって気になることは、この現状において、学校の先生がたは「ドゥーリア」(ケアする人をケアするもののこと)をちゃんと得られているだろうかということだ。東畑(2019)は、ケアする・されるが一方向的なものではなく双方向的なものであることにも触れている。先生がたは職場においてお互いにケアし合う関係を得られているだろうか。そういうことを先生がたと共有し考えるきっかけにしたい一冊だ。

学校にもケアを必要とする児童・生徒が多くいて、それに対する理解を深めるためにも本書は薦められるのだが、本書を通じて、私の思考は「ケアする側」(のケア)のほうに向いた。あとは、ちょっとだけ『セトウツミ』のテイストに似通ったものも感じた。