[本024] 柳楽『手で見るいのち: ある不思議な授業の力』


このところ、良書との出会いが続いていてしあわせだ。

生物の良い授業の話だとか、特別支援教育の話だとか、そういう括りだけではない視点で、教師を目指す人や、いま授業に行き詰まっている先生がたに読んでほしい一冊。

上野動物園での実習風景をプロローグに、筑波大学附属視覚特別支援学校での、武井先生が担当する中1の生物の授業風景から本書は始まる。動物の名前は明かさず、「事前の知識が大切なのではなくて、あくまでも自分の手で触って得たことから、世界を広げていくという授業」(p. 22)。中村桂子さんの書評を参照されたい。生徒たちの感じたこと、考えたことをベースにした授業について、ここだけでも教職志望者には参考になることだろう。

本書は次いで、この授業を作り上げた先人(青柳昌宏・鳥山由子)の紹介に移る。「生徒にとって理想的な授業とは、自己の個性と能力を自発的に開発伸長していく整備された場である」(p. 57)。青柳先生がカッコよすぎてシビれる。もちろん、理療の道に進む以外あり得ないという時代に声をあげ実践してきた鳥山先生も。「名人」を神格化するのは好きではないが、上手な新聞記者のなせるワザか、彼らの教育者としての哲学的「芯」を捉えて、成したことがコンパクトにまとめてあってべとつかない。そしてバトンは武井先生へ。ここには一人も「でもしか先生」は登場しない。「だからこそ先生」たちの歩んできた道のりが清々しい。

次章では、物理・化学で高等教育の道を切り拓いてきた卒業生の当時と今が紹介される。学校にいる間だけではない広い視点で、特別支援教育が持つ意味について考えさせられる章になるだろう。個人的には、受け入れを決めた当時のICUや東大の教職員の話を読むにつけ、今の大学にこういうカッコいい大人はどのくらいいるだろうかと(我が身を顧みて)情けなくなる。

歴史や周辺を踏まえ、本書は、骨を触る授業に帰ってくる。第4章、そしてエピローグでは、かつての遺骨献体のエピソードや点字の成立史などを挟みつつ、半年間の観察を経て「いい授業はすてきなプレゼントのようなものだと思うようになった」著者の気づきが語られる(p. 168)。

本書は、私にとって貴重な「仕事の読書の合間の、肩肘凝らずに読める本」の一冊だが、どんな本も(というより、自分が接するどんな事象も)専門に引きつけて、あるいは担当の授業と結びつけて読んでしまう業病に侵されている私は、やっぱり外国語(英語)教育のことを思わざるを得なかった。

骨を触る観察はたしかに時間がかかる。だが、じっくりと触って骨の特徴をよく考えれば、動物が生きていたときの様子や、視覚では感じられない生き物の姿を思い描くことができる。

しかし、私が授業で目をつぶって試したように、ちょっと触っただけでは、とてもその境地に到達できない。普段、私がものを触っているよりも、もっと高い次元での触覚を使ってこの授業は進められているのだ(p. 44)。

「外国語習得には時間がかかるのだ!」という教える側のマッチョで押し付けがましい発言のレベルではなくて、ここで描写されていることをことばに置き換えた時に、たしかに時間をかける価値がある授業を、普段よりも「もっと高い次元での触覚」を発揮させるような授業をどの程度作れているか。武井先生の生物の授業が「生徒たちの中に言葉を作っている」(p. 159)授業だとすれば、言葉そのものを対象とする国語教育や英語教育は生徒たちの中に言葉を作ることができているだろうか。

1 Comment

  1. 宇多 光誠

    2019年8月5日 at 06:33

     青柳先生の教育実践(教育者としての理念)など、詳細に紹介いただいて感動しています。私たちは昭和38年、和歌山の那賀高校という高校で生物の授業を受けました。強い影響を受けた生徒の一人です。東京生まれの先生が和歌山で教鞭をとられたのには、太平洋戦争という皮肉な歴史が背景にあります。疎開先の地方(片田舎と言えば語弊がありますが)の高校で、私たちも素晴らしい『生物』の授業をいただきました。60年近くも前のことになりますが、そのころから憧憬の念と僭越ながら「ただ者ではない!」という思いを日々感じていました。ご紹介いただきましたこと、ほんとうにありがとうございました。

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