あすこまさんの紹介記事を読めば十分とも思うが、

を読んだので、一言コメントしておく(英語教育を専門とする先生がたが訳されたので、英語教育関係者が手に取りそうということもある)。

本書の主張を端的に言えば、「個別具体的な知識をもっと自由に教えさせろ」ということだ。その主張自体はおかしいとは思わないし、イギリスのナショナル・カリキュラムに対する批判も(著者が報告している実態が正しければ)きわめて正当だろう。教育内容のみならず教育方法を束縛することがもたらす不幸を考える上で一つの有益な資料ではあり、他山の石としたい訳者の意図は理解できる。

しかし正直なところ、本書に対する私の評価はあすこまさんのものよりぐっと低い。必読の文献とは思わないし、目次を見て、本書が指摘する7つの「神話」について「えーそうじゃなかったのー!」と思う人は、本書のような書籍にすがる前に、自分が接している児童・生徒をもっとよく観察して、自己の実践とその結果を見つめ直した方がいい。

私の評価が低い理由は、著者の引用・論証の仕方にある。神話1において、「この神話を支えている理論」としてルソー、デューイ、フレイレの言葉が引かれ、批判される。なぜこの3人が並列に扱われるのか、理解に苦しむ(ここで「理論」という言葉を使っていることにも違和感がある)。デューイがルソーの、フレイレがルソーとデューイの著作に影響を受ける部分があったとしても、同じ時代・社会の人間でもない彼らが、全く同じ考えを同じように主張したというのだろうか。そんなわけはない。当然ながらデューイにはデューイの、フレイレにはフレイレの社会的・学術的背景がある。それを踏まえずに恣意的な引用で「知識(の役割)を軽視している!」と三者を批判するのはあまりにも乱暴だ。

例えばデューイは『子どもとカリキュラム』(1902)において、次のように述べている。

Just as two points define a straight line, so the present standpoint of the child and the facts and truths of studies define instruction. It is continuous reconstruction, moving from the child’s present experience out into that represented by the organized bodies of truth that we call studies (p. 109).

(ちょうど二点によって直線が定まるように、子どもの現在の立脚点と様々な研究の事実と真理によって指導は決まる。それは、子どもの現在の経験から、われわれが研究と呼ぶ、系統だった真理の集合として表現されるようなものへの絶え間のない再構成である。)

上の引用からも読み取ってもらえると嬉しいのだが、少なくとも私は、これまで学生時代からデューイやフレイレを読んできて、彼らが個別具体的な知識(の指導)を軽視しているなどと感じたことはない。フレイレの言葉を引用して同じ問題を示すことはしないが、大工業化の時代のアメリカでの学校教育に対して、著者が引いているような主張をデューイがしているコンテクストと、1960年代にフレイレが亡命先で、あるいはその後ブラジルで経験したことを元に主張しているコンテクストは同じではない。

イギリスのナショナル・カリキュラムが、その設計の基本方針としてルソーやデューイ、フレイレの著作の影響を受けていることは事実だろう。しかし、それはイギリスにおけるルソー、デューイ、フレイレの受容・解釈の問題であって、ルソー、デューイ、フレイレの主張の問題ではない。更に言えば(巨人の肩に乗る者の当然の選択として)フレイレがルソーやデューイを批判して論を展開していることはちょっと勉強すればすぐに知る話なだけに、仮に三者を括るとすれば、三者の主張に関するこれまでの教育学研究に照らして、何がしかの具体的な根拠を持ってその主張をするべきだと思うが、そうした言及も一切ない。デューイやフレイレの研究者はこの世に存在しないのだろうか。教育学者のすすり泣く声が聞こえてくる。

引用に関する著者の学問的不誠実さは、ハッティー『教育の効果』の引用部分にも表れている(pp. 60−62)。ここで著者は、メタ分析の結果として「直接教授法」(direct instruction)の効果が十分にあったことを、「教師主導の授業により生徒は受け身になる」という神話を打ち崩す経験的証拠にしている。その主張自体は良いとしても、直接教授法が「3番目に大きな要因である」というまとめは単純に誤りというか、どういう捉え方で3番という把握になるのかわからない。実際は効果量d = 0.59で、その順位としては全体として26位で、「指導方法」に関するメタ分析の中でも11位である。更に言えば、続く章で批判される「神話」との対応で言えば、『教育の効果』には同じ指導方法のカテゴリーで「メタ認知方略」(d = 0.69)や「問題解決的指導」(= 0.61)の効果も報告されているわけだが、そういった要因についてハッティーは参照されない。要するに都合のいいとこどりなのだ。

ルソー、デューイ、フレイレの扱いや、そうした教育哲学の著作にアンダーソンやウィリンガムのような(少し手垢にまみれた)認知心理学の文献からの引用をぶつけて自説を裏付けようとする辺り、各文献のステータスを著者が十分に把握できているか疑わざるを得ない。後半の教育社会学者に対する批判も、現にある社会資本・文化資本の格差の実態から不平等が(拡大)再生産され得る可能性の指摘と、特定の知識(の教授)が差別につながるかどうかということがごっちゃになっているように思う。それでいて著者が「知識の教授は重要だ」と出してくる例は(イギリスのアクチュアルな問題なのかもしれないが)あまりにも極端かつ素朴で、Standardized Educationの知識観にとらわれ過ぎの印象を免れない。

ついでに言及しておくと、著者が好むウィリンガムも最近訳書が出た。

悪い本ではないし(後半、特に9章とまとめは良い)、まとめ方もうまいが、原著が10年前であるだけでなく、波多野・稲垣コンビや北大路書房の訳書シリーズ、有斐閣アルマ、あるいは英語教育でも天満先生・津田塾大グループあたりが散々書いてきた話の再放送という感じなのが個人的には残念ではある。この本を通じて若い人がその辺の知見に触れるのは悪いことではないにせよ、帯や表紙はいつものごとく煽りすぎだし、8、90年代書籍のジェネリック製品感が私にはダルかった(個人的には今だってむしろ波多野・稲垣の岩波新書や中公新書を薦めたい)。

同様に、『7つの神話との決別』が批判している「神話」と同じことは日本でも大なり小なり議論されてきたし、歴史的事例も多数あるわけで、例えば(科学的思考力・科学的探求の姿勢云々といった)精神主義ないし徳目態度主義の問題や、経験主義と系統主義の振り子については、例えば、戦後の生活単元・問題解決学習に対する遠山啓の批判や、

を読めば済む。足元の教育実践史を省みることをせず、舶来品に一足飛びの「答え」があると飛びついてしまう傾向があって煽り帯の訳書が次々並ぶのだとしたら、まずはその「神話」をこそ解体したほうがいい。