近い界隈では既に十分話題となっている、

は、教育関係者にはやや難解な部分もあるかもしれないが、特に管理職や教育行政関係者には一読を強く薦めたい一冊だ(副題の「パフォーマンス評価」は現在学校教育で用いられる意味ではないので、「業績評価」に置き換えて読むべし)。

著者の言葉を借りれば、「本書は、測定の害悪について語るわけではない。経験に基づく個人的判断の代わりに標準化された測定を使おうとする際に起こる、意図せぬ好ましくない結果について語る本だ」(p. 5。下線は引用者による)。雑誌の連載をベースにしており、各章がコンパクトなのが非常に良い。その分、行間に含ませた含意も多いので、前提知識がない人には読みづらいかもしれない。それでも、ケーススタディを通じて報告される「素朴測定信者が思うほど人間(の振る舞い)は単純ではない」という警鐘は様々な立場の人にとって読む価値がある。

教育関係者は先に第8章の「学校」を開いてもよいだろう。アメリカのNCLB (No Child Left Behind)法やその前後の展開・帰結などの部分だけでも読んで損はしないからだ(あわせてWaiting for supermanなどを観ると良い)。日本の学校においても、「PDCAサイクル」をまわすこと・まわさせることが半ば自己目的化している教育行政や校内研修の実態は少なくない。「学力格差に関して言えば、目に見える結果の進歩がない場合、継続的な測定に費やされるリソースそのものが、道徳的な熱意のあらわれとなる」(p. 100)、あるいは「…学力格差を解消するために学業成績の測定結果に応じた報酬が良いと主張する側の自己満足は、本当に子どもたちを教育しようと努力する人々を犠牲にする。測定できるものも、すべてが改善できるわけではないのだーー少なくとも、測定によっては」(p. 102)という著者の指摘によって、関係者はぜひ耳を痛めてほしい。

「学校」の他にも、「大学」や「ビジネスと金融」など、ケーススタディはどれも示唆に富むのだが、私が本書を薦める最大の理由はその先にある。それは「医療」の章で特に具体的に語られる「透明性」についての議論だ。問題が「測定基準ではなく、測定基準への執着」(p. 5)にあるとして、その執着を生むものは何か。多くの人は、「測定基準への執着」が有害であることや、測定できないものの中にも、あるいはそういう中にこそ、その分野にとって重要なことがある可能性を躊躇なく認めるだろう。むしろ既にそういう感覚・見解を持っているからこそ本書を手に取る人が多いだろうと思う。しかし「透明性」についてはどうか。過度の測定に意識的・批判的な人でも、診断・評価にかかわる手続きは全て透明であることが望ましい、と考えているのではないか。

本書は、透明性の要求を無限定に善きものとしている限り、専門職に対する説明責任の肥大は収まらず、それは結果として「測定基準への執着」を招く、というジレンマをわれわれに投げかけている。私が東大講演で「追い風参考記録」と呼んだものと「透明性」は多くの場合、衝突するだろう。名人芸的秘伝に回帰するのではない形で、(学校)教育の不透明性を守ることはできるだろうか。そんなことを本書を通じて考えた。

最後に、The tyranny of metricsという原題に「測りすぎ」という絶妙の邦題を付してくれただけに、訳語のいくつかはもう少しわかりやすくできたように思う。代表例が、ここまでも本書に即して用いてきた「測定基準」(metrics)だ。他分野の人や一般の人には逆にこれでも問題ないのかもしれないが、専門性を損なわない、本書の文脈に即した訳語としては「定量化指標」といったところだろうか。

内容とは別のところだが、方眼の含意的なイメージも含め、装丁のセンスが良いと思う。