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とかく「エビデンス」が求められるこんな世の中だから、理由の述べ方(の指導)について気になっていること。

季節柄、「彼女が好きだ」と叫ぶとしよう。なぜ好きなのか。

  • I like her because I like her.

青春とはそういうものかもしれないが、これでは理由になっていない。大事なことを二回言っただけだ。これではどうか:

  • I like her because she is cool.

中学から大学まで学習者の英文によく見られるパターンで、これで理由が述べられていると判断する教師も少なくないように思う。しかし、ゆるい日常会話やbecause節の導入時の練習としてはアリかもしれないが、argumentativeなスピーチを準備したり文章を書いたりする段階であれば、これで良しとすべきではないだろう。彼女のことを好きなのも、彼女がクールなのも、話し手・書き手の主観的な判断に過ぎないからだ。ここで言わんとしている「クール」の意味合いも、受け取り手とは異なるかもしれない(むしろピッタリ同じになるほうが珍しいだろう)。これでは、刑事が「見た目が胡散臭いので犯人だと思う」と言うようなもので、根拠に乏しく、聞き手・読み手にI don’t think so.と言われたらそれまでである。

根拠は裏付けのある経験的事実・データであることが望ましいものの、主観的な意見が全てダメというわけではない(むしろこの場合、彼女の容姿や行動、地位や肩書き等々について(客観的)事実を並べると、理由としてはしっかりするかもしれないが、ともすれば人として何かカサついた感じになりそうだ)。たとえば、彼女が自分にとってどういう存在かを記述すると、理由としてずいぶんマシになるだろう:

  • I like her because she is the one who understands me and makes me stronger.

だが納得するのはまだ早い。どうして自分のことを強くしてくれる存在だと「好き」なのか、どうして彼女が理解者だと言えるのか、他にも理解者はいるではないか否他の有象無象じゃダメなのだ、といった「論拠」(warrant)ーー「主張」と「根拠」を繋ぐものーーが提示されない限り、そう簡単に頷くわけにはいかない*1。だから『英語論文・レポートの書き方』のようなガイドでも、argumentativeな文章では、主張の後に、具体例や論拠の明示的説明を通じて主張を支持する「サポート」を置くことが説かれるわけだ。

理由の述べ方の指導や理由を述べることが重要となる活動において、雑な根拠を提示するだけで終わっていることがままある。根拠の確からしさももちろん重要だが、それ以上に論拠が十分に示されているかどうかに注目してほしいと思うことが少なくない*2。上の例は極端に単純化した例を挙げているが、「グローバル化した社会に対応するために(社会がグローバル化しているので、それに対応できるよう)…」とか「東京オリンピックで十分な『おもてなし』ができるよう(東京オリンピックが開催されるので、そこで『おもてなし』ができないと困るので)…」とかいったそもそも意味のよく分からない言葉を用いた「根拠」に基づく主張が、「クールだから彼女が好き」と変わるところはそれほどないように私には思える。彼らが「根拠」と言っているものがそもそも「根拠」足り得ているか、その背後に隠された前提(=論拠)は何か、よく考えて理由を述べられたい。

と、ここまで読んで「そうだ、そうだ」と頷いてくれたアナタが大変いい人であるのはよく分かる。読んでくれて有り難う。I like you. しかし、これで納得するのもまだ早計。自分で例に挙げといてなんだが、そもそも「彼女が好きだ」と叫ぶのに理由が必要だろうか。3番目の例ですら穿った見方をすれば、なんだかカッコつけてるというか言い訳がましいというか、他の可能性を断ち切るために自分に言い聞かせているか、聞き手・読み手に対する社会的ポーズという感じに読める。むしろ、

  • I like her. I don’t know why.

のほうがピュアで、気持ちとしては真実に近いのではないか。結果として好感度もあがりそうだ(バカっぽい言い方だと逆効果だろうけど)。理由なく好き。それでいいではないか。それぐらいのパッションを持ってぶつかってよろしくワッショイ(そしてloveになる)。

つまり問題は、主張のほうが理由・論拠を述べるに値するものになっているかどうかなのだ。手持ちの言語材料が少ない段階では致し方ないところもあるが、こういう、それほど理由を要しない事柄について無理やり理由を述べさせる活動を中学校の公開授業や学生の模擬授業で目撃する。しかし、I like her.やI play football.のような単純な事柄になればなるほど、逆に理由として「なるほど!」と思うような、納得の得られる理由を述べるのは難しくなるように思う。不可能というわけではないが、それだけ高度なレトリックが必要になるということである。中学生が理由を述べる活動としてそれは適当だろうか。全然理由が書けていないと嘆く前によく考えたい*3。

話は変わるが、Green (2014, p. 128)の図6.1にかかわって、outputとencodingの違いは何かという質問を院生から受けた。使う人によって定義は微妙に異なるだろうし重なり合う部分もあるかもしれないが、ざっくり言えば、前者は音声や文字を通じて実際に表出することを指しており、後者は表現したいことを頭の中で言語化することを指していると言えるだろう。outputとして理由を述べる活動を用意するのはそれほど難しいことではないが、上で指摘したことは「その前のencodingのところをこそ問題にすべき、丁寧に扱うべきだ」という主張だと言えるだろうか。それに対する十分な根拠・論拠が十分に提示できたかどうかは読者の判断に委ねたい(という逃げオチ)。

 

*1 主張・根拠・論拠、議論のトゥールミン・モデルについては『議論のレッスン』等を参照。

*2 必ずしも意味の明瞭ではない根拠を先に提示して、「どういうことだろう?」と思わせてからサポートを提示するというテクニックはあり得る。例えばMalalaさんのノーベル平和賞受賞演説の次の一節:

(snip.) I tell my story, not because it is unique, but because it is not.

It is the story of many girls.

Today, I tell their stories too. I have brought with me to Oslo, some of my sisters, who share this story, friends from Pakistan, Nigeria and Syria. My brave sisters Shazia and Kainat Riaz who were also shot that day in Swat with me. They went through a tragic trauma too. Also my sister Kainat Somro from Pakistan who suffered extreme violence and abuse, even her brother was killed, but she did not succumb.

And there are girls with me, who I have met during my Malala Fund campaign, who are now like my sisters, my courageous 16 year old sister Mezon from Syria, who now lives in Jordan in a refugee camp and goes from tent to tent helping girls and boys to learn. And my sister Amina, from the North of Nigeria, where Boko Haram threatens and kidnaps girls, simply for wanting to go to school.

Though I appear as one girl, one person, who is 5 foot 2 inches tall, if you include my high heels. I am not a lone voice, I am many. (…)

*3 ディベート活動にも似たところがあって、主張と論拠がきちんと確立・共有されていないと、粗雑な根拠が飛び交って、深まることがないまま終わってしまうことが多い。