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学習指導要領「改定」案が公表された(何の衒いもなく「改定」と表記されるようになってしまったようだが、なぜ改定に鉤括弧をつけているのかについてはこちらを参照)。メディアで取り上げられる際の話題のひとつは、やはり小学校での英語の教科化。

現行指導要領で外国語活動(あるいは、その前の総合的な学習の時間)が導入されることになった時もそうだったが、

で指摘されている通り、周囲ではその課題に関する議論はもっぱら、教員養成・研修の問題、つまり「小学校の先生に英語を教え評価することができるのか」という話になりがちだ。賛成派はだから養成・研修をちゃんとやりましょうと言うし、反対派はだから教科化なんてとんでもないと言う。一部には「専門的に学んだことがなくても、先生自身に学んで使おうとする姿があればダイジョーブ!」という無責任の塊みたいな考え方の人もいて、反対派の怒りに油を注ぐだけでなく、真面目な賛成派も呆れさせている。

私が訝っているのは、これが中学校・高校に新しい科目を導入する議論であったなら、この「専門的に学んだことがなくても、先生自身に学んで使おうとする姿があればダイジョーブ!」論者が同じことを言っただろうかということだ。もし同じことを中学校・高校(・大学)の教員に対しても言うのであれば、いわば教員に専門性や資格・免許は要らないと言っているのに等しく、首尾一貫はしている。しかし、この論者たちの考え方はそういうラディカルなものではなく、根底に「上の段階の学校種になればなるほど扱う内容も教員の力量も高度になる」、逆に言えば、「小学校では中高ほどのものが求められるわけではない(からダイジョーブ!)」という前提があるのではないか。その意味で、真面目な反対派・賛成派の怒りはよくわかる。小学生に教えるのが(比較的)簡単だというのは、内容の面でも指導の面でも全くの誤りで、教育をろくに知らない者の戯言だ。自治体や教科により差はあれ、小中高でいうと小学校教員が実際、最も採用試験を通りやすいのかもしれないが、それは単にパイの大きさの問題で、小学校の教員にこそ高度な知識と指導技術が求められるのは間違いない。

ただこれはどの教科についても言えることで、各教科教育や「親学問」を専攻したのでもない限り、群論を学び四則演算を定義できる小学校教員は多くないだろうし、ファインマンのテキストや『細胞の分子生物学』を通じてがっちり学んで理科を教えている小学校教員も稀だろう。大事なことは教職員集団として子どもにどういう学びが保障されるかということであって、全ての教員に、しかも新人の頃からそういう知識がなければ教壇に立ってはいけないとは私は思わない。ただ、実践を通じて自らの知らなさを児童・生徒に教えられた教員が、授業に必要な専門知識を深めて行ける労働環境がどれだけあるかと言われればはなはだ心許ない。その意味で、寺沢さんの「労働問題」という指摘には全く同意である。

それと同時に、小学校英語導入の問題でつくづく顕著だと私が思うのは、教員が専門職として尊重されていないということであり、教授・学習という営みが(これまで人類が積み重ねてきた研究・実践がろくに顧みられることなく)軽んじられているということであり、子ども(の権利)が軽んじられているということだ。根本的には、お仕着せの研修で取り繕ったり、養成課程で数単位、英語指導法の授業を提供したりした程度で解決する問題ではない。

今回の案で、小学校「外国語」を含め、中高で扱う語彙数が増えることや、内容(仮定法などの文法事項)が降りてくることに反応する人もいるようだが、私はそれ自体は問題だとは思わない。

今までの語彙数や文法事項、その順序にだって言うほどの根拠があったわけではない。個人的には、中学生こそwhat-ifを楽しく語れるだろうからそれを高校生に限定する理由はないと思うし、逆に、そういう仮定や想像、過去・未来とhere-and-nowを比べる手段を与えようと思えば比較構文はかなり複雑で、中学校2年でそれを(見ればわかるような比較しがいのない例で)導入する必然性があるようには思われない。各学校種でどのくらいの語彙とどういう文法事項を扱うのが適当かということについては、もっともっと研究を重ねなければ確かなことはほとんど何も言えないのが現状だ。

もっと重大な問題は、指導要領に記載される内容が増えようが減ろうが、それが「(特に形式面にのみ焦点を当てて)全てをひとしなみに扱い、完全に習得させるもの」を意味する限り、これまでも多くの不幸をもたらして来たし、その不幸は今後も減らないだろうということだ。事実の問題として、どれだけ「簡単」とされる文法事項であってもある段階で一度扱えばそれですっかりわかったり身につくというようなものはなく、外国語の知識・技能の発達は(というよりもそもそも教授・学習一般に)そのように進むものではない。高校生・大学生であれば「現在進行形」や「現在完了形」の意味・機能を十分に理解しているなどということはないし、ある文脈の中で必然性を持って用いられている「現在完了進行形」を含んだ文のメッセージを中学生が全く理解できないということもない。以前にも書いたことがあるが、学習をバケツで水を注ぐようなイメージで捉えている限り問題は解決しない。財政的裏付けの問題だけでなく、仮にそんな浅薄な学習観・授業観に基づく研修・「サポート」であれば百害あって一利なし、というのが私の懸念である。

その意味でも、下記の記事で本田さんが指摘するように、現実離れした到達目標と強い統治性の帰結として「やったことにするようなごまかし」が生まれざるを得ず、そのことがさらに一生懸命な教員たちを苦しめることになるだろう。

絵に描いた餅で喉を詰まらせて窒息なんて、落語のサゲにもならない。パブリック・コメントは2017年3月15日まで。