[雑感081] キャッチボールしようよ

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学校再開後の教育をどう考えるべきかについて新聞の取材を受けた。

言いたいことはだいたい残してもらえたほうだが、前記事([雑感079] 9月入学論がなぜ今、筋違いなのか)と同様にこちらで補足しておく。

記事のタイトルは、文字通りの意味でもあるしメタファーでもある。

野球に特に思い入れはないが、COVID-19によって、特に日本では、そして学校では、運動やスポーツの優先順位が不当に下に置かれている現状があるように思う。子どもたちがいま公園でサッカーや鬼ごっこをしていたら、余計なお世話の大人たちが、「自粛警察」が、騒ぎ立てるのではないかという不安が拭えない。ロックダウン(都市封鎖)を実施した諸外国でさえ、運動のための外出は認められていた。オリンピックを強行しようとしているわれわれの社会は、果たして「運動」を大事にしていると胸を張れるだろうか。

多くのスポーツイベントの中止が「仕方ない」と流される一方で、入試について同様に「仕方ない」と考える人は多くないように思う。しかし仮に大学入試が中止になった場合、大学進学希望者が受けるショックが甚大なものだとしたら、それは、スポーツに打ち込んできた高校生がいま感じているものと何が違うと言うのだろうか。入試を中止せよと言いたいのではなくて、意識せずそういう区別をしている自分を発見したら、それは何故なのかを立ち止まって考えてほしい。それが乱暴に塗りつぶしてしまっているかもしれない子どもたちの気持ちについて。

何を問題視しているかと言えば、要不要の判断がおよそ論理的な理由に基づいているとは思えないことだ。大学入試共通テストが「通常のイベントよりはずいぶん感染リスクは低い」のであれば、投手とバッターの間が18m以上離れた、塁と塁の間はそれ以上離れた野球もずいぶん感染リスクは低いのでは?室内で、フィジカルな接触が濃厚な柔道やバスケットボールの試合となると分が悪いにせよ、キャッチボールやサッカーのパス回し、バスケのフリースロー、バドミントン、ゲートボールもダメというなら、そもそも一切の社会生活が不可能に思える。

新しい生活様式」の「娯楽、スポーツ等」は筋トレ、ヨガ、ジョギングを挙げているが、世の中には意識の高い社会人しか存在しないのか。筋トレ・ヨガ・ジョギングをそれとして楽しんでいる人もいるだろうし、それはそれで結構なことだけれども、新しい生活様式が、多くの人が様々な運動・スポーツを楽しむ姿を思い浮かべ、その日常の回復を真剣に考えているようにはどうにも思えない。何より子どもにとっての自由な運動やスポーツの機会は蔑ろにされている。一方で、大人たちは子どもの「勉強の遅れ」を取り戻すことに必死だ。およそ納得できる理由なしに自由を奪われ、監視の目に縮こまり、大人たちの都合で強引なペースが押し付けられる。それが子どもたちにもたらすストレスが気がかりでならない。

だから「キャッチボールしよう」なのだ。ただでさえしんどい今の状況で、子どもたちを急き立てるのはやめよう。せめて子どもたちには「のんびり」を提供しようや。体育によって運動嫌いとなって、実際自分の人生において運動やスポーツの優先順位はさほど高くない私がそういうことを感じてこれを書いているのだから、よっぽどのことだ。もっと言えば誰かがキャッチボールする自由を護りたい。サッカーでもラグビーでもバレーでもテニスでも良い。それぞれにリスクに配慮をして楽しもうとしている個人の運動の自由を尊重する社会がいい。

運動だけではなく、音楽や文化芸術もおよそ大事にされているとは言えないことについては今更ここで述べる必要もないだろう。でも「飲み会」については問題の始まりから今に至るまでその何倍も心配されているようだ。オンライン飲み会、居酒屋の仕切りの工夫、換気の良い屋外テーブル云々。多くの大人たちのメンタルにとっては重要なことかもしれない(し、保護者の機嫌がそれによって良いことは子どもたちにとっても間接的に影響するかもしれない)が、もういいよ、「飲み会」のことは。お酒が手に入らなくなったわけではないし、お店の経営が心配であるのは飲み屋さんに限った問題じゃあない。

こういうことを書くと、勉強ができるやつのマッチョな意見と思われるかもしれないが、2か月程度の勉強の「遅れ」が、教育上、致命的な影響を与えたりすることはない。学校で学ぶ知識・技能はいつでも、いくらでも取り戻せる。しかし、わずかな期間であっても、上から押さえつけられたり理不尽に怒られた記憶、他者とうまく関われなかった経験の苦さはずっと残る。どうか自分たちが子どもだった時のことを思い出して、あるいは美化された思い出の中の、優秀で、勤勉で、忍耐強かった自分のことは一度脇に置いて、もっともっとフラジャイルで、デリケートな子どもの心と体のことを大事にしてくれないだろうか。

だから「キャッチボールしよう」なのだ。言うまでもなく、キャッチボールを続けるためには、相手との距離を考慮して、相手が受け取れるところに相手が補給できるスピードでボールを投げる必要がある。向こうが投げるボールを受け取るために、相手の投球動作とボールの軌道を観察し、必要なら移動し、適切なタイミングで適切な場所にグラブを構える必要がある。ボールが届きさえすればいいわけではなく、また落球しなければいいということではなく、両者にとってボールの往来が心地よいものであるためには適度なリズムや緩急も欠かせない。

先生たちには子どもたちにそういうふうに向き合ってほしい。子どもたちが投げ返すボールに込められたシグナルを読み取って、次の返球を調節してほしい。子どもたちはブルペンで黙々と球を受け続けるキャッチャーではない。学校や教師は無感情に同じ速度の球を放り続けるピッチングマシーンでもない。球数や球速にこだわるのではなくて、お互いの呼吸を大事にして、少しずつ新しい学校生活を構築していきたい。そのための時間的・環境的余裕を先生たちに提供してほしい。

英語の授業についても同様だ。コミュニケーションをキャッチボールに喩えるのはコミュニケーションの特性を見誤らせるので止めたほうがいいのだが、今のこの状況は、キャッチボールからスタートしてもよいと感じている。というより英語の時間に、外で実際にキャッチボールをしながら声をかけあうところから初めてはどうかとさえ思っている。サッカーボールをパスするのでも良い。教室なら禁じられる向かい合ったペアワークも、キャッチボールなら距離は十分だ。子どもたちは、それぐらい距離を開けても届く声はしばらく出していないのではないか。今までのやり方ができないと嘆くよりも、with COVID-19の状況で、どうやったらお互いにとって心地よいコミュニケーションが実現できるかを考えたい。

十分な数のグラブやボールあるかな。

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