「同年代ではあまり定番ではないが自分的に激熱な本たち」(くにの勉強日記)に触発されての投稿。『これからの英語教師』や『無責任なテストが「落ちこぼれ」を作る』は確かに激熱で,英語教員志望の学生が手に取らなくなっているとしたら非常に残念なことだ。幸い私は,授業で紹介されたか図書館でタイトルに惹かれたかして,学生時代にごく自然に触れることができた。英語教員志望でなくてもお薦めだし,この二冊が廃れる心配はあまりしていない。危うくなったら,また彼や,英語教育界の誰かが中心か辺縁で愛を叫んでくれるに違いない。ここではタイトル通り,英語教育の話をしていて,私としては激熱だと思うのに,「もしかしたら英語教育の人たちには届いていない」かもと懸念する2文献を紹介する。

残念なことに2冊とも絶版。英語教育だけでなく,教育(方法)学の人たちにもあまり知られなくなっている恐れもある。2冊目は図書館にもなかなかないかもしれない。私は,コピーは持っていたが,どちらも長いこと中古市場を探しまわって現物を入手した。自炊するしかないか。。。

まず,柴田義松編『教科書:子どもにとってよい教科書とは』(有斐閣,1983年)。

教科書一般の歴史的経緯や機能と編纂過程についての総論的な章に挟まれて,国語・社会科・算数/数学・英語,各教科の教科書のあり方が論じられている。第5章の「英語教科書のあり方」(pp. 169-218,菅野冨士雄)が英語教育にとっては実にアツい。目標論や方法論に異論があってもいい。むしろあって然るべきなのだが,実践に裏打ちされた具体論を交えながら,教科としての全体像,教育内容・教材構成論を展開している。そう,こういう議論がしたいのだ。

「中学3年間で,こんな学力をつけたい」,「現状は,どうなっているのか」,「わたしたちの求める教科書」,「授業と教材」,「INDIAN CAMPへの道:中学3年間のカリキュラムの概要」からなる構成で,例えば「現状は,どうなっているのか」では,中学校教科書の発行状況をまとめて,次の懸念表明。

全国の中学校のすみずみまで,言語活動の中で英語を覚えさせるという言語活動主義の授業がいきわたっている。ここに至った歴史を簡単にふりかえってみたい。20年さかのぼると1962年である。(試案)の文字のない,つまり法的拘束力をもつ「中学校指導要領」(1958年)に基づく検定教科書が使用されだした年である。この年を境にして,20種類をはるかに越えていた中学校用英語の検定教科書の種類が減少した。60年24種,61年18種,62年12種,69年10種,72年5種,75年4種,81年5種である。英語(読本),英語(作文文法),英語(総合)の別も,61年以降はなく,すべてが総合ということになった。戦後,英語教育がすべての国民に開放され,義務教育である中学校でのあり方が模索されていた。英語の授業は,英語の教師として養成されてはいない教師たちの手にゆだねられ,実効のあがらない授業に苦しんでいた。そこからの脱出のための実験が始まっていたことは事実である。検定教科書の種類の多さ,形式・内容の多様さがそのことを物語っている。それらのせっかくの試みが,実を結ぶ前に(というよりははじまって間もなく),法的拘束力をもつ学習指導要領の出現によって,芽をつみとられてしまった(pp. 182-183,下線は引用者による)。

2011年の「現状」に対して穿った見方をすれば,約30年の時を経て,ステージを変えて同じことが繰り返されようとしている感がしないでもない。次の指摘などは,中高の,現行および新指導要領準拠の教科書による授業に対しても少なからず妥当するだろう。

言語活動の中での言語の学習は,経験的・個別的にならざるをえない。その結果,機械的・形式的になる。この形式的な言語に支えられる活動は貧弱なものでしかありえない。「言語活動重視」のお題目にもかかわらずこの悪循環がくりかえされている。生徒の関心・意欲を失う結果になる。それを糊塗しようと生活主義が生ずる。教授=学習を遊びに堕落させかねない。

My house is a farmer.

中学生の書く英文に,この種のものをよく見かける。「わたしの家は農業です」という意味である。日本とイギリスあるいはアメリカでは農業のあり方がちがう。家のあり方もちがう。それらに対応して,ことばでの現実の切り取り方がちがう。家を主語にして,経営も労働も一体のものとして表現する日本語と,人間を主語にして,経営(keep a farm)と,労働(work on a farm)とを区別する英語とを一対一対応で置き換えることはできない。My house is a farmer.は,姿・形は英語であるが,心は日本語である。タテのものをヨコにかえたに過ぎない。生徒がこの種の英文を書く現実を認めないと言うつもりはない。この現実から出発して,生徒を英語の世界へと導いてやらねばならない。教科書がその道筋を示しているだろうか(p. 187,下線は引用者による)。

そして残念ながら,個々に多くの進歩は確認できるものの,依然として今の「教科書がその筋道を示している」と言い切ることはできない。この後に「身長を問うHow tall are you?はほとんどの教科書から姿を消した」(p. 188)なんて話があるが,最近のものでも,比較構文の導入で,お互いの身長や,既に高さの分かって数値まで示されてる建築物などを比べさせる,つまりわざわざ比較構文を使って表現する意味ない作業を課す(ために,英語の比較表現がいつ,どういう風に用いられるのかを理解し難くする)教科書はあるのだから。

またこういった主張以上に,「過去形」ではなく「時制」概念の指導といった観点や,その流れでの進行相の扱いについての整理といった教育内容・教材構成論が個人的にはアツい。個々の用法の例と対比は省いて,まとめだけ引用すると,

進行形は,動作,変化,状態などの動詞の種類によって,その多様さをしめしながら,「その途中」という進行形に共通の意味的特徴をもつことによって,普通形や完了形と対立している。そして,英語の相(aspect)の体系を形づくっている。「学習指導要領」によれば進行形と完了形は,前者は中学一年で,後者は中学三年で扱うことになっているが,相の体系の中でとらえるなら,両者を一緒にして「時制」のあとに位置づく(p. 193)。

この本から約10年を経た時点でも,私は「be+~ingで『〜している』」,「状態動詞*は普通進行形にならない」と教えられただけだった。「普通」じゃない時はどういう時で,そもそも「普通」とはどういう場合なのかを示さないと,この説明はほとんど意味をなさないだろう。「〜している」と機械的に対応させるのは,本書で批判されているように,論外。無論本書の説明でオールオッケーというつもりはないが,文法教育をカリキュラムの問題として論じるためには少なくともこういった観点が必要で,それは今も十分とは言えない。文法解説書などでの「進行形」それ自体の説明はずいぶん良くなったと言えるが,本書や五島・織田(1977)のような論考には滅多にお目にかかれない。

さらに,言語活動主義を批判しながら,「直接的に言語の体系を学習するのでは」なく「言語を手段に思想の交換をする」「本格的な言語活動」と,それとは別に「言語として学習したものを具体的場面に適用してみるための」「言語活動もどき」を用意して,それぞれの役割を論じているのも(DeKeyser (ed.) (2007)***などの議論につなげることもできる)卓見だと思う。

もう一冊は,ブログ名の由来とさせてもらった『授業でつっぱる』(あゆみ出版,1984年)。

義家先生が母校に帰って良くも悪くも有名になった北星学園余市高校で,各教科教育の専門家との共同研究が行なわれたことがあった。本書は,この実践をまとめたもので,英語・国語・体育・地理・世界史・化学・物理・数学の授業実践が並ぶ。一冊にこれだけの教科の実践が並ぶのも珍しいが,授業者や同僚である北星余市の先生がたはもちろん,「研究同人」である北大・北教大関係者がこれだけ結集しているのも驚く。

英語については,『新英語教育』誌の小山内(1977)に基づく,「アルファベットのあゆみ」の授業プランとその実践記録が載っている。「大文字と小文字はどちらが先に生まれたか」,そしてそれは何故か,「iやjに点が付いているのはどうしてか」といった疑問を話し合いながら,アルファベットを意味のある存在として学び直していく。最後の生徒の感想を一つ引用する。

中学校のときなんて,アルファベットを使用しながらも“あゆみ”なんて習わなかった。でも,高校になってあらためて基礎から習えて嬉しかった。他の学校の友達なんて,すごくうらやましがっています!これからも,このようにわかりやすくしてほしいです。中学校のとき,英語なんてイヤだったけど,今は違うの(p. 28)。

  • * 小山内洸(1977)「英語アルファベットの指導過程:0次構想」『新英語教育』5月号,pp. 24-35.

私自身は小山内の論(=教育内容論)にせよ,このプラン(=教材)にせよ,いくつか改善の提案を持っている(そうして改善されていくことは「0次構想」と題した小山内自身の望みでもある)のだが,ゼミで学生に読んでもらったら,上で引用した感想と同様,このプランに対する評価は思いのほか良かった。それは,授業プランを批判的に見るという経験が彼らにはまだまだ不足しており,そもそも教科内容について知識が豊富ではないという事情もある。しかし,英語嫌いの多い彼らが口々に「こんな授業なら受けたかった」というところを見ると,完成度はともかく,しっかり伝わっているその「芯」ないしは「幹」を評価すべきなのだろう。チープなドリルを押し付けたり,安易な言語活動に流れることなく,英語学習に対して強い苦手意識・嫌悪感を持っている生徒を「英語の世界へと導く」授業観・内容構成の手がかりが,ここには今も色褪せることなく含まれている。

「おわりに」から高村泰雄の言葉を引用しておく。

 これまで行われてきた「基礎学力の回復」の試みはどのようなものであったろうか。たとえば,分数計算ができないといえば,もとの年齢,学年段階にもどった形で教える,高校で,小学校3年・4年の分数計算を,教科書で展開されたとおりに教える,英語でも,中学校の教科書で教える,あるいは徹底したドリル,反復練習で習熟をはかることによって基礎学力を回復させる,といったことが考えられ,あるいは実践されてきた。
これは一見,生徒たちにとって有益なものにみえる。しかし,基礎学力を,そのような形において系統的に積みあがっているものの基礎とみる学力観は大きな問題を含んでいる。同時に,高校段階で,小学校または中学校の内容・指導方法で教育することの,非教育性も当然問題となろう。いずれにしても,高校生には高校生にふさわしい基礎学力の内容・方法をもって,その形成をはかる必要があると考えるべきであろう。
さらにいえば,学力の回復というとき,「回復」ということばはまったく適切でない。回復というのは,たとえば健康の回復といった場合に,健康な状態があってそれが阻害され,それがもとにもどる,ということである。今の場合,もともと学力はないのであり,ない学力に対して,こういう学力が本来あるべきであるということを想定し,回復させるという考え方は非常に教育的でない。
これは本来,回復ではなくて,新しくつくるものである。
学力というものは,形成するものだという考え方が,共同研究の中で明らかにしてきた第一点で,この本では,たとえばアルファベットの歴史,文字の指導がその一例となっている。要するに,アルファベットが十分に書けない生徒がいた場合に,それを中学校のアルファベットの指導という形でするのではなく,アルファベットという文字の歴史,そのいわれを深く掘り下げて,しかも一応アルファベットをマスターしている生徒に対しても学習の動機づけを失わせない形で,高い水準で学力を形成することが試みられている(pp. 303-304)。

高校生に限らず,本来的にアルファベットを学ぶことになっている段階でもこのプランが有効であることは,もちろん言うまでもない。

欲を言えば,英語教育関係者には,両文献の他教科についての章も読んでほしい。他教科の優れた実践からもアイデアをもらえる,そして他教科の取り組みについても物申せる,そういう英語教員「も」いてほしいから。みんながそうなれって事じゃ,もちろんない。スペシャリストもオールラウンダーも両方いていいと思うし,両方必要だと思う故。