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今日は知能観・学習観の話をした。遺伝説・環境説・輻輳説(的発想に陥った教師・親・学習者)の問題点からマルチ能力理論まで,実験データや日常の例を織り交ぜながら。とは言え既有知識に頼れず説明が長くならざるを得ない部分なので,退屈せねば良いがと心配しながらだったが,感想を見る限り,自分の経験などに引きつけて興味を持ってくれたようだ。前半の文献講読で,各自がしっかり役割を果たしてくれたお陰もある。

それにしても,僭越ながら改めて感心するのは,配布資料中の参考文献にも挙げた波多野・稲垣による一連の新書の水準の高さである(テキストの今井・野島も参考文献に挙げている)。学生時代に運良く出会って以来,ごく自然にその知見に依っているが,成長し(た気になっ)て読み返すたびに,面白さと分かりやすさでヨダレが垂れる。もちろん最近のこの分野の文献を読むと,いろいろ研究が進んで,ここで論じられていたことがさらに精緻になっていたり批判的に発展させられたりしているのが分かるのだが,大づかみには未だに波多野・稲垣で十分な気がする。

『人はいかに学ぶか』と『知力の発達』は研究室に置いて来たので,『知的好奇心』から一節を引用してみよう。「第7章 知的好奇心を生かす授業」の冒頭部だが,この章を読むだけで教育内容構成の視座がずいぶん深まる。

幼児教育の段階では,従来『まともな』知的教育はほとんど行われていなかった。そこで前章では,好奇心・向上心を強調する立場から,どんな形で知的教育を導入すべきかを考えたわけである。しかし,この同じ立場からすれば,いまの学校での知的教育もまた,『改革』されなければならない。…(中略)…子どもが本来,好奇心・向上心の強い存在だとすれば,彼らが楽しいと思う授業を展開することはさほどむずかしくないはずだ。子どもの持つ知的好奇心を利用して,彼を学習へと動機づけてやればよい。――このようにいうと猛烈に反論される方があるかもしれない。そんなことはわかっている。現在の授業でも,子どもの興味や関心を重視している。しかし,子どもが興味や関心をなかなか持つようにならないからこそ苦労しているのだ,と。だが,このような主張のなかには,子どもから興味や関心が『自生的に』あらわれてくるのを待ってそれを利用していこうーーこう考えている傾向はないであろうか。あるいは現実の場面では,興味や関心の押売りがなされてはいないだろうか。何歳児だからこれに興味を持つはずだ,といったように。ここでいおうとしているのはそんなやり方ではない。子どもの持っている知識に周到な配慮をよせながら,かつそれぞれの教科の性質とかみあわせて,子どものうちに知的好奇心をつくり出していこうというのである。そしてそれによって授業をすすめていこうとする。そうすれば,子どもが楽しいと思う授業が展開されるにちがいない(波多野・稲垣 1973: 111-2。下線は,原著では傍点)。

2010年現在においても,というかなお一層のこと「学校での知的教育」はこの意味での「改革」が急務であり本務だと言いたい。特に高校での英語教育にはこの一節が予言のように当てはまっているところが少なくない。

理学部の建物自体ほとんど入ったことがない僕なんかでも,母校の大先輩のノーベル賞受賞の知らせは嬉しいものです(あ,H先生だ)。 全く知らない分野ですが,化学教育に取り組む後輩のお陰で,研究内容も何となく分かった気になりました。プリーモ・レーヴィ『周期律』(工作舎)の炭素の章を思い出した。