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9月22日の記事で統制群の設置に関する学習科学の議論に触れたが,柴田(2010b)を読んでいたら,40年以上前に彼がこのことを端的に指摘していた(この巻の収録著作は1971年の『授業の基礎理論』で,引用部分の初出は1969年の雑誌『教育』。前出の4巻と区別するためにbとしておく)。

ところで,このような(科学者,教育研究者の協力のもとで現代的な教科の体系を作り出そうとするーー引用者)授業実験の目的はどこにおくべきか。これを従来の授業と授業後のテストによって比較することには,それほどの意味はないと思われる。このようなテスト結果によって得られる情報は,わずかなものにすぎない。悪くすれば,かえってまちがった結論に導く。水道方式(系統学習)と問題解決学習とを比較して,前者は計算力ではすぐれているが,問題解決学習にはおとるという結論を出している結論があった。両者を比較するばあいの前提になる方法論にまちがいがあり,比較すべからざるものを比較するという,新しい教科プログラムに対する無理解と,テストに対する過信が,このようなあやまった判断を生み出す。このばあいの授業研究=実験は,われわれのプログラムあるいは教材体系に改善を加えるべきところはどこかを明らかにすることに,主要な目的をおくべきだろう。したがって,このばあいに統制学級を設ける必要は必ずしもない。比較が有効なことも,もちろんあるが,みんなで最善と考える授業案を作成し,最善の授業をすべきである。そして,評価も,その授業あるいはプログラムが,生徒の思考や能力にどのような変化をあたえたかを明らかにすることに集中すべきである。このような授業を多数の教師が多数の学級で試みることによって,授業案はだんだん改善され,教材やプログラムの欠陥も修正されていくのである(柴田 2010b: 16。下線は引用者による)。

拙博論でも統制群を置かないことを断る際に,このことをよりカッチョ良く指摘した(と少なくとも私は思う)土井・三上・須田(1971)や鈴木(1972)を引いたし(日本教育学会の学会誌『教育学研究』で「教育学研究における実験」という特集が組まれた時代があった!),この発言が革新的だと言うつもりはない。ただ,不勉強ながらこの文献自体は見ていなかったので,分かりやすい文章でスパッと指摘してくれていることにちょっと驚いた次第。

次の章では,授業研究の方法論をめぐる当時の論争に言及があって興味深いのだが,その話はまた別の機会に。

  • 鈴木秀一(1972)「教育学研究における実験」『教育学研究』39(2): 13-23.
  • 土井捷三・三上勝夫・須田勝彦(1971)「運動の解析を基礎とした正比例関数の指導」『北海道大学教育学部紀要』18: 181-204.

JUJU『Request』には若かりし頃の思ひ出ある曲ばかりが収録されていて,再発見も多面的です。アレンジの良さも手伝って,改めて楽曲の真価が発揮されていたり,既にボーカルに定評のある曲に違った味わいが感じられたり,オリジナルの存在感がかえって際立ったり。なるほど「White Love」はこういう感じに仕上がるかー。