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昨日, 山梨の小学校の道徳の授業で「脅迫文」作成活動が行われていたという報道があった。これに関して一言,二言,教育方法学的ツッコミをしておく。

以下,毎日新聞からの引用。

山梨県韮崎市の市立小学校の男性教諭(48)が担任を務める5年生の道徳の授業で、新聞から文字を切り抜いて身代金を要求する内容の脅迫文を作らせていたことが分かった。グループ作業で友達と協力することを教えるのが目的だったというが、校長は「文の内容が不適切だった」として口頭注意した。市教委によると授業があったのは27日午後で、児童30人が参加。黒板に「(教諭の実名)の身柄を悪の組織が確保した。返してほしければ、ちびっ子広場に8000円もってこい。1秒でも遅れると命はないものと思え」などと手本の文面を書き、5、6人のグループに分かれて新聞の切り抜きをさせた。授業内に作業が終わらなかったため切り抜きは回収し、廃棄した。9月の道徳は「友達と協力する」がテーマで、脅迫文作りは教諭自身が考えた。教諭は「興味をひくためにやったが、良くない文面だった」と反省しているという。保護者からの指摘で発覚した。【小林悠太】

毎日や朝日の記事を読む限り,担任も校長もピントがずれていると言わざるを得ない。「文の内容が不適切だった」とか「良くない文面だった」とか,問題はそんなことではない。保護者も,問題の本質が何なのかを見極められるようにならねば。

問題は,この担任教諭が道徳教育の目的をどのように捉え,この活動で何を教えようと,そして学ばせようとしたのか,ということである。「架空請求詐欺グループの養成」などと居直ったら驚くが,「誰が書いたかを読み手が特定するのを難しくする文書の作成法」を教えることが道徳教育になるだろうか? 彼らの反省によると,「お母さん・お父さん,いつもありがとう。私たち,これからもいい子でガンバルね」なんて文面だったら許されていたということだろうか? どうか,そんな脅迫状風の感謝の手紙を受け取る保護者の身になってくださいな。

彼らの言い分通り,題材は何でも良く「グループ作業で友達と協力することを教えるのが目的だった」として,この程度の活動で「友達と協力すること」が意味ある形で学べるだろうか? 架空請求詐欺グループだってそれなりに協力してコトに当たってるだろうから,その程度の「協力」,というよりも「分担作業」なら,わざわざ学校の授業時間を割く必要はあるまい。 新聞を利用してコラージュを教えたかったなら,図工や総合的学習の時間にやれば良い。それだってグループ作業を組織することは可能だし,むしろ独創的な作品を作ろうとする中で,意見の出し合いやその調整について有意義な経験ができただろう。 どうしても9月のテーマに沿って「友達との協力」を主たる教育内容として押し付けたかったのであれば,掃除の仕方をみんなに計画してもらって「友達と協力」して教室や学校の大掃除に取り組めば,まだしも「道徳」的だったのでは?

文面と状況から推察する限り,今回の話は,先日報道された,割り算の授業で「一日あたり3人殺害すると何日で全員を殺せるか」を求めさせた教諭とは精神状態や事の性質が違う。「授業内に作業が終わらなかったため切り抜きは回収し,廃棄した」という授業計画の稚拙さからも窺えるように(「廃棄」が,やってみてから事のマズさに気づいて故の行動か否かは定かでないが), 某探偵マンガ・アニメなどで生徒にもお馴染みだし,自分を被害者役にして,新聞・ハサミ・ノリ・紙を用意してチョイチョイチョイ,と考えたのだろう。だとすれば文面などではなく,そんな,集団で賽の河原の石積みをさせるような計画性のない活動で「興味をひく」ことができると考えたこと(トランプタワーの方がまだ盛り上がっただろうに!),それで「友達と協力すること」が学べると考えたこと,それを道徳教育の目的にかなうと考えたこと,そここそ反省すべきことで,注意されるべきことではないか。

「道徳」は教科ではないが,16日の記事での柴田(2010)からの引用やそこで述べたことは,ここにも当てはまる。個々の教員レベルでも学校レベルでも,しっかり「観」を鍛えて,一つひとつの教育内容をきちんと積み上げていかないと,こうして報道されるまでに至るかどうかはともかく,似たことがあちこちで繰り返されるだけだ。その「観」をどうやって(自己)形成していくかというのは,一筋縄ではいかない難問ではあるものの。

夏休みの間に一日のリズムがずれてしまって,まだ身体が一講目に適応できていない気がします。意外と仕事ははかどって早く帰れたのですが,何だかあちこちがシックリしないので,とりあえず『おやすみプンプン』の7巻を読んで意識をとばしてみました。これまで以上にディープです。